幕末での功績は、西郷隆盛や大久保利通以上といっても差し支えありません。
小松帯刀銅像は、鹿児島市山下町にあります。
この記事では、小松の人生を簡単に紹介します。
小松帯刀の人生
誕生・婿入り
安政3年(1856年)、小松近と結婚して門閥家の小松家を相続。
この婿入りを機に、小松姓となりました。
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青年宰相
さらに
- 軍事
- 外交
- 財政
- 産業
- 教育
等を担う、藩の掛も兼務。
こうして小松は、青年宰相となりました。
でも、どうして?
当時の薩摩藩最高権力者は、島津久光。
しかし国父となってからも、島津家一門が家老職を占めていました。
つまり権力も権威も、当初は強固ではありませんでした。
加えて、指揮命令権も集中させます。
これにより久光は、自身の権力と権威の向上に成功しました。
久光は小松を通して、自身の意向を通しやすくしたんだね。
禁門の変
前年の八月十八日の政変で京を追われた長州が、政局復帰を目指して進軍。
薩摩や会津各藩と、武力衝突を起こしました。
小松は薩摩藩の総司令官として、陣頭指揮を執っていました。
また全軍を指揮していた、裏守衛総督・一橋慶喜へ助言。
幕府側の勝利に、大いに貢献しました。
薩長同盟
そして慶応2年(1866年、京の小松屋敷で薩長同盟が締結されました。
薩長同盟とは、主に薩摩が長州を助ける密約です。
- 長州が幕府と戦争になった場合、薩摩は擁護する事
- 長州復権の政治工作を、薩摩が実行する事
内容は、以上2つに集約されます。
後に実行され、ついには倒幕の足掛かりとなりました。
大政奉還
集めた諸藩代表に、意見を聞きます。
小松は藩代表として賛成を表明し、大政返上の奏上を勧め、慶喜は受け入れました。
翌10月14日、小松は土佐の後藤象二郎と、摂政・二条斉敬を訪ねます。
しかし二条は、慶喜の大政返上を受理しようとしませんでした。
日本統治の機構や能力が、朝廷になかったためです。
「拙者どもにも覚悟あり!!」
と、大声で威嚇。
二条は、受理せざるを得ませんでした。
出仕・帰藩・藩政参加
- 参与
- 外国事務掛
- 総裁局顧問
- 外国事務局判事
- 外国官副知官事
- 玄蕃頭
以上7つの役目に就くも、持病の足痛が悪化。
そのため、明治2年(1869年)に帰藩しました。
帰藩後は、西郷と藩政改革を実施します。
しかし足通が、さらに悪化。
大坂に向かい、オランダ人医師・ボードウィンの治療を受けました。
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死去
しかしこの時、あばら骨が浮き出るほどに痩せこけていました。
同年7月18日の午前1時頃、ボードウィンと京都妻のお琴が立ち会い、36才で他界しました。
当初は、大阪の夕陽ヶ丘墓地に埋葬。
その後、明治9年(1876年)10月、日置市吉利の園林寺墓地に改葬されました。
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小松帯刀銅像のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市山下町5 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で5分 | |
まち巡りバス 西郷銅像前から徒歩1分 |
|
カゴシマシティビュー 西郷銅像前から徒歩1分 |
小松帯刀銅像の地図
小松帯刀銅像の総評
多くの歴史的事件に関わっていたんだね。
幕末は小松抜きに語れないと言っても、過言ではありません。
小松帯刀の銅像は、その大政奉還時の様子をイメージして造られました。
顔は、かつて仕えた島津斉彬、久光、忠義の銅像がある、照国神社と探勝園の方向を向いています。
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