
五代友厚って、何をした人なの?

大阪商法会議所を設立し、大阪経済の発展に貢献しました。
五代友厚銅像は、鹿児島市泉町にあります。
この記事では、五代の人生を簡単に紹介します。
五代友厚の人生
誕生・遊学

天保6年(1835年)、現在の長田町で五代は生まれました。
子供時代から頭が良く、28代・島津斉彬から〈才助〉の名を貰うほどでした。

頭の良かった斉彬から認められるなんて、相当だね~!
やがて成長した五代は、長崎海軍伝習所へ遊学。
航海、砲術、測量など、海軍に関する知識を学びました。
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薩英戦争・捕虜

しかし文久3年(1863年)、生麦事件の賠償などを求め、イギリス艦隊が薩摩に来航します。
五代のいた汽船が拿捕されたのを機に、薩英戦争が始まりました。

ええ~っ!
五代は無事だったの?
五代は、図らずも捕虜になりました。
しかし上陸戦を考えていたキューパー提督に、薩摩隼人の勇ましさを説いて和解を進言。
上陸戦は回避され、後日、イギリスと薩摩藩は和解しました。
潜伏・渡欧

五代はイギリス艦隊から釈放後、薩摩藩からスパイ容疑を掛けられます。
しかし、長崎に潜伏中に
- 蒸気機関
- 紡績機械
- 軍艦
などを購入するよう、藩当局に上申書を提出しました。

それだけ藩の将来を考えていたんだね。
藩当局は建言を受け入れ、五代を赦免。
慶応元年(1865年)、五代は若年の留学生達とヨーロッパに渡り、紡績機械を購入しました。
大阪商法会議所を設立

明治維新後は、実業界に転進。
- 大阪株式取引所
- 大阪商法会議所
- 大阪商業講習所
これら3つを設立し、幕末の混乱で疲弊した大阪経済の復活に尽くしました。

国や地方が豊かになるには、民間の力が欠かせないことに気付いたんだね。
死去

明治18年(1885年)、五代は東京で亡くなります。
享年49歳。
亡くなる5日前、本籍地を鹿児島から大阪に移しました。

身も心も、大阪に捧げたんだねえ。
五代友厚銅像(鹿児島市)のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市泉町5 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス 鹿児島ブランドショップ前から下車すぐ |
|
カゴシマシティビュー 金生町から徒歩3分 |
五代友厚銅像(鹿児島市)の地図
五代友厚銅像(鹿児島市)の総評

銅像が注目されるようになったのは、ここ最近です。
テレビドラマの影響力は、本当に凄いです。

五代の人生を知ると、今まで注目されなかったのが不思議だね。
なお銅像周辺には立体駐車場や公園があり、少しゴチャゴチャしています。
道路向かい側から撮影すると、比較的スッキリ写ります。
チェック
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