死から7年後の慶長4年(1599年)、菩提寺として心岳寺が建立されました。
明治の廃仏毀釈後、現在の平松神社が創建されたんですよ。
平松神社は、鹿児島市吉野町にあります。
この記事では、神社の概要や逸話を紹介します。
平松神社の概要
出入口
踏切がないように見えるけど......?
ご覧のとおり、出入口には踏切がありません。
警報音も鳴らないので、渡る前に左右の確認が必要です。
鳥居・参道
拝殿
拝殿は月日が経っており、本殿の壁も一部破れています。
怪我をしないよう、安易に座らない方が無難です。
歌碑
「晴蓑めが玉のありかを人問はば いざ白雲の末も知られず」
「晴蓑(歳久)の魂の場所を聞かれたら、雲の彼方へ消えたので分からないと答えよ」
島津歳久の墓
こちらは明治時代に建てられ、後に日置の大乗寺跡に改葬されました。
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殉死者墓地
歳久の家来27名も、この平松神社周辺で戦死しました。
平松神社の逸話
島津歳久の最期
しかし、計画は失敗。
そのため、秀吉の恨みを買いました。
そして後年、当の秀吉から濡れ衣を着せられます。
そして、兄・島津義久に、歳久処断の命が下されました。
文禄元年(1592年)、歳久は義久の追っ手に追われ、この地で自刃を試みます。
しかし、歳久は持病の中風で、思うように手足を動かせませんでした。
そこで、囲んだ追っ手に首を取るよう促しました。
追っ手の中の1人・原田甚次が駆け寄って、歳久の首を取ります。
それを見た他の追っ手達は、槍や刀を投げ捨てて地面に突っ伏し、岩陰に隠れて号泣。
追っ手達も、濡れ衣であることを知っていました。
心岳寺建立
それを、歳久の従兄弟・島津忠長が、家来に盗ませます。
そして、京の浄福寺にある塔頭宝林庵に葬りました。
胴体は、姶良帖佐の総禅寺に葬られました。
秀吉死後の慶長4年(1599年)、兄・義久は歳久の霊を祀るため、この地に心岳寺を建立しました。
西郷と月照の入水
西郷は、歳久の最期を月照に聞かせた後、共に入水しました。
周囲は暗闇だったろうから、月照にとって最後に目にしたのが、心岳寺の灯りだったんだね。
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改葬
そして、総禅寺の胴体を掘り起こし、首と共に平松神社に埋葬しました。
首と胴体が一緒になるのは、実に280年振りでした。
そして前述通り、日置の大乗寺跡に改葬されました
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平松神社のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市吉野町10691 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 駐車スペースあり |
アクセス | 鹿児島空港から車で30分 |
鹿児島中央駅から車で20分 | |
平松バス停より徒歩5分 |
平松神社の地図
平松神社の総評
頭がボーっとしてる日は、避けたほうが無難!
ちなみに江戸時代には、心岳寺参りが盛んでした。
明治時代には私学校の生徒が参拝するなど、薩摩隼人にとって聖地と呼べる場所でした。
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