
『月照上人入水の地』って看板に書いてあるけど、ここで月照が入水したの?

ここは陸地なので、正しくは周辺の錦江湾で入水しました。
この事件を後世に伝えるため、昭和2年(1927年)に追悼碑が建てられました。
月照上人の追悼碑は、鹿児島市吉野町にあります。
この記事では、入水前後の逸話を紹介します。
前回の記事
月照入水前後の逸話
永送り

安政5年(1858年)、薩摩藩に軟禁されていた月照は俵屋を発ち、現在の霧島市福山に向けて、西郷隆盛らと鹿児島を出港しました。

前回の記事で教えてもらったけど、月照は永送り、つまり薩摩と日向の国境で斬り捨てられることになったんだよね。
西郷は藩主・島津斉彬の死を知って殉死を考えるも、月照に諌められて思い留まった過去がありました。
また公家の近衛忠煕から、月照の保護を依頼されてもいました。
しかし藩庁から永送りを命じられ、西郷は苦悩します。
入水直前

2人を乗せた船が大崎ヶ鼻周辺に来た頃、西郷は心岳寺(現在の平松神社)の灯りを指差し、島津歳久の最期を月照に聴かせました。
歳久は、兄・島津義久の軍勢に追い詰められ、この地で亡くなった戦国武将です。

自分達と歳久の境遇を重ねたのかな......。
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入水・救出

西郷は歳久の話をした後、月照と海に飛び込みます。
新暦で数えると、12月20日の真冬の夜。
月照46才、西郷32才でした。

無理無理!
寒いし深いし暗いし、絶対に助からない!
入水にいち早く気付いたのは、船頭の庄五郎でした。
同船していた福岡藩士・平野国臣は帆縄を切り、停船させます。
そして水中から浮かび上がった2人を奇跡的に見つけ、一同すくい上げました。
介抱

しかしこの時、2人の呼吸は止まっていました。
平野と付き添いの藩吏・阪口周右衛門は、自分の着物を脱ぎ、肌で温めながら水を吐かせ、花倉浜に船を着けました。

みんな必死だ......!
余談ですが、この時の船の板戸と障子が、鹿児島市の西郷南洲顕彰館に展示・保存されています。
関連サイトをチェック
月照上人の追悼碑のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市吉野町10043 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 駐車スペースあり |
アクセス | 鹿児島空港から車で35分 |
鹿児島中央駅から車で20分 | |
三船バス停から徒歩5分 |
月照上人の追悼碑の地図
月照上人の追悼碑の総評

えーと、2人は助かったの......?

それも、次回の記事で紹介します。
次回の記事
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