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小松帯刀屋敷跡

小松帯刀屋敷跡

小松帯刀屋敷跡

 

小松帯刀って、何処に住んでいたの?

 

島津家の居城だった鶴丸城周辺に住んでいました。

 

 

小松帯刀屋敷跡は、鹿児島市山下町にあります。

 

この記事では、屋敷跡の概要と逸話を紹介します。

 

 

小松帯刀屋敷跡の概要

井後眼科ビル

井後眼科ビル

井後眼科ビル

 

現在、小松帯刀屋敷跡には、井後眼科ビルが建っています。

訪れるには、この黄土色の建物を探して下さい。

 

はいはーい。

 

 

石碑

石碑

石碑

 

ビル1階に、屋敷跡を記した石碑が建っています。

屋外にあるので、いつでも自由に見学できますよ。

 

黒御影石の立派な石碑だねー。

 

 

小松帯刀屋敷跡の逸話

婿入り

 

天保6年(1835年)、肝付兼善の三男して肝付尚五郎、のちの小松帯刀は生まれました。

肝付家は代々、家老を輩出する門閥家でした。

 

なるほど、肝付家の生まれだったんだね。

 

 

そして、安政2年(1855年)に同じ門閥家の小松清猷(きよかど)が急死します。

 

尚五郎は藩主・島津斉彬から、お家存続のために清猷の妹・お近の婿養子になることを命ぜられ、安政3年(1856年)正月に小松家を相続。

 

この結婚を境に、屋敷に住むようになったと考えられます。

 

 

龍馬夫妻の宿泊

 

慶応2年(1866年)、京の寺田屋で坂本龍馬が幕吏に襲われ、負傷しました。

 

世に言う寺田屋事件だね。

でも、それと何の関係が?

 

 

龍馬は小松や西郷の勧めに従って、薩摩で療養することにします。

 

その間、妻・お龍と屋敷に2泊しました。

 

 

 

 

豚肉を送る

 

小松は久光の名代として、京に赴任している時期がありました。

その間、徳川慶喜から何度も豚肉を所望されました。

 

江戸時代、肉食は禁忌だったけど、薩摩の人は豚肉を食べてたんだよね。

慶喜もハマッたのかー。

 

 

その頃、お近は京の小松に

 

  • 豚肉
  • 牛肉

 

などを送っていました。

 

そのため慶喜は、お近が送った豚肉を口にしたと考えられます。

 

 

京都妻の子

小松帯刀の墓

小松帯刀の墓

 

明治3年(1870年)、小松は大阪で亡くなります。

お近との間に子はおらず、京都妻・お琴との間に2人の子がいました。

 

それで、どうなったの?

 

 

小松の死後、お琴と2人の子供は、五代友厚の面倒のもと、大阪に居住します。

 

しかし明治4年(1871年)、長男の安千代が、鹿児島の小松家に引き取られました。

 

 

家族と別れて、知らない土地で、お近と暮らしたのかー。

子供心に、相当寂しかったんじゃないかなー。

 

鹿児島に蒸気船が入港するたび、安千代は

「妹が乗っているのでは?」

と思い、浜まで迎えに行きました。

相当、寂しさが募っていたはずです。

 

 

明治7年(1874年)、お琴が26歳で亡くなります。

 

残された妹・於須美は、お近が引き取って養育。

 

その後、安千代が小松家の家督を継ぎ、清直と名乗りました。

 

 

小松帯刀屋敷跡のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市山下町7-10
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で5分
まち巡りバス
西郷銅像前から徒歩3分
カゴシマシティビュー
西郷銅像前から徒歩3分

 

 

小松帯刀屋敷跡の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

小松帯刀屋敷跡の総評

 

特に説明板もないので、肩透かしを食うかもしれません。

 

まあ、私有地だしね。

 

 

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