西南戦争の時、ここに官軍の本営があったの?
はい。
そして、米倉もありました。
そのため西郷軍は、襲撃を実行しました。
西南戦争官軍本営跡は、鹿児島市山下町にあります。
この記事では、西郷軍による襲撃を紹介します。
官軍本営への襲撃
計画
明治10年(1877年)2月、西南戦争が勃発します。
西郷軍は、鹿児島から北上しました。
しかし、各地で敗戦。
同年9月、鹿児島に帰還します。
本営が置かれた城山は、政府軍によって包囲され始め、絶体絶命のピンチでした。
ふむふむ。
そこで戦局打開のため、城山の眼下にあった官軍本営と、米倉の襲撃が決まります。
70名による精鋭の抜刀隊が組まれ、隊長に貴島清、副隊長に増田宗太郎が選ばれました。
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実行
同年9月4日の午前3時頃、抜刀隊は官軍本営を襲いました。
当初は優勢。
しかし、他の官軍部隊が応援に駆けつけます。
こうして、抜刀隊は劣勢に陥りました。
結局、襲撃はどうなったの?
隊長の貴島は、銃弾を受けて戦死。
副隊長の増田は、一説には捕虜になったのち、斬られたと言われています。
2人を含む抜刀隊の約半数が戦死し、襲撃は失敗に終わりました。
西南戦争官軍本営跡のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市山下町11 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス 西郷銅像前から徒歩5分 |
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カゴシマシティビュー 西郷銅像前から徒歩5分 |
西南戦争官軍本営跡の地図
西南戦争官軍本営跡の総評
戦後の政府は、鹿児島の旧士族に仕事を与えるため、この場所に鹿児島授産場を設けました。
復興だけでなく、内乱防止の目的もあっただろうね。
チェック
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