城山エリア

西南戦争薩軍本営跡

西南戦争薩軍本営跡

西南戦争薩軍本営跡

 

明治10年(1877年)の西南戦争で、西郷軍は敗戦と撤退を重ねました。

西南戦争薩軍本営跡は、最後の本営が置かれた場所です。

 

いよいよ戦争は、終局に向かっていったんだね。

 

 

西南戦争薩軍本営跡は、鹿児島市城山町にあります。

 

この記事では、本営跡の概要と逸話を紹介します。

 

 

この記事は、2023年10月1日(日)に更新されました。

 

 

西南戦争薩軍本営跡の概要

出入口

出入口

出入口

 

本営跡に行くにはまず、城山展望台の出入口から入ります。

 

ほいほーい。

 

 

近年、クルーズ船の入港増加により、駐車場に観光バスが多く停まるようになりました。

 

そのため、出入口の交通量は比較的多めです。

 

ご注意下さい。

 

 

通路

通路

通路

 

展望台に向かう通路途中に、階段があります。

こちらをお昇り下さい。

 

階段だけだから、車椅子の人は介助が必要だね。

 

 

通路(城山ドン広場)

通路(城山ドン広場)

 

階段を昇ると、〈城山ドン広場〉があります。

ここではかつて、正午の時報を知らせる空砲が撃たれていました。

 

『ドン』は、空砲音の事かな?

面白い名前~。

 

 

通路

通路

 

広場奥に進むと、ちょっとした階段があります。

こちらを上に進んで下さい。

 

肥満体だから、少しの階段でも汗をかいちゃう(笑)

 

 

通路(コンクリート建造物)

通路(コンクリート建造物)

 

階段を昇って少し歩くと、通路左手にコンクリート建造物が見えてきます。

この建造物に向かって、歩いて下さい。

 

あれ?

フェンス近くに、何かある?

 

 

石碑

石碑

石碑

 

このコンクリート建造物の近くに、本営跡の石碑が建っています。

 

ここが本営跡か~!

 

 

明治10年(1877年)9月1日、西郷軍は鹿児島に帰ってきました。

 

この時の兵力は、約500人。

 

私学校を占領していた官軍200人を追い払った後、ここに本営を構えました。

 

 

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西南戦争薩軍本営跡の逸話

桐野利秋と貴島清

西南戦争官軍本営跡

西南戦争官軍本営跡

 

9月3日、戦局の転換を図るため、精鋭の抜刀隊による官軍本営急襲が決まります。

隊長は、自ら申し出た貴島清。

終始相容れない関係だった桐野利秋と別れの杯を交わし、ようやく2人は心から打ち解けました。

 

その後、貴島はどうなったの?

 

 

翌9月4日の午前3時頃、貴島清は、副隊長の増田宗太郎以下70名と、官軍本営を襲いました。

 

当初は塁壁を突破するも、やがて官軍の援軍が到着。

 

怒涛の銃撃に倒れ、貴島は死に場所を得ました。

 

 

 

 

西南戦争薩軍本営跡のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市城山町21-6
料金 無料
駐車場 無料
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で20分
まち巡りバス
城山から徒歩5分
カゴシマシティビュー
城山から徒歩5分

 

 

西南戦争薩軍本営跡の地図

→Googleマップの大きな地図で見る

 

 

西南戦争薩軍本営跡の総評

 

鶴丸城裏の城山は、戦になった時の本城として、かつて薩摩を統治していた島津家が想定していた場所でした。

そのため西郷軍も、城山に本営を置いたと考えられます。

 

なるほど~。

確かに市街地より山に籠もった方が、守りが堅いもんね。

 

 

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この記事の参考文献はこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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-増田宗太郎, 村田新八, 桐野利秋, 西郷隆盛, 貴島清