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鹿児島紡績所跡

鹿児島紡績所跡

鹿児島紡績所跡

 

鹿児島紡績所跡って?

 

かつてここに、日本初の近代的な紡績工場がありました。

イギリスの技師や機械を呼び寄せた、本格的なものでした。

 

 

鹿児島紡績所跡は、鹿児島市吉野町にあります。

 

この記事では、紡績所跡の歴史を紹介します。

 

 

鹿児島紡績所跡の歴史

構想

 

元治元年(1864年)、薩摩藩士の五代友厚は、以下の上申書を藩当局に提出しました。

 

「上海で米や国産品を売却し、その代金で製糖機械を買い入れ、白砂糖を作って輸出しましょう。

その利益で、イギリス・フランスへ留学生を派遣するのです。

さらに

  • 軍艦
  • 鉄砲
  • 蒸気機関
  • 紡績機械
  • 鉱山機械

を、購入されてはいかかでしょうか。」

 

利益を重ねて、富国強兵をはかる仕組みだね。

 

 

また、開成所教授の石河確太郎も、紡績機械の購入とイギリスへの留学を上申。

 

藩当局は建言を受け入れ、紡績所建設の一歩を踏み出しました。

 

 

 

 

設計と技士派遣の依頼・機械の発注

新納久脩銅像

新納久脩銅像

 

慶応元年(1865年)、五代は経済使節として留学生と渡英。

  • 経済使節の新納久脩
  • 通訳の堀孝之

を交え、当時世界最大の紡績メーカー・プラット・ブラザーズ社に

  • 紡績所設計
  • 技師派遣

を、依頼しました。

 

ふむふむ。

 

 

プラット・ブラザーズ社は数ヶ月掛けて、鹿児島紡績所の図面を作成。

 

設計に基づき、五代と新納は

  • 梳綿機(そめんき)10台
  • 精紡機6台
  • その他6台

を、発注しました。

 

 

 

 

建設

旧鹿児島紡績所技師館

旧鹿児島紡績所技師館

 

慶応2年(1866年)、契約に基づいてイギリス人技師4人が来鹿。

鹿児島紡績所の建設に取り掛かりました。

翌慶応3年(1867)年、さらに3人が来鹿して機械も到着。

そして同年、竣工しました。

 

資本主義は、スピードが違うねえ。

 

 

技師達は

  • 紡績所建設
  • 技術指導

のため、長期滞在する必要がありました。

 

そんな彼らの宿舎として建てられたのが、旧鹿児島紡績所技師館です。

 

 

 

 

生産開始

解説板

解説板

 

蒸気機関と紡績機械の威力は凄まじく、高品質な織物を大量生産できるようになりました。

鹿児島紡績所では、200名余りの職工が勤務。

技師たちは約1年間、技術指導を行いました。

 

へ~っ!

 

 

閉鎖

島津忠義公之像

島津忠義公之像

 

しかし、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発。

鹿児島紡績所周辺も戦闘地域になり、打撃を受けます。

戦後に生産を再開するも、日本各地に建設された紡績工場との競争で、赤字が続きました。

 

これも資本主義の宿命だね。

 

そして、最大の庇護者だった島津忠義も病床に就きます。

 

ついに明治30年(1897年)、鹿児島紡績所は廃止されました。

 

 

 

 

鹿児島紡績所跡のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市吉野町9688-25
料金 自由
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で20分
まち巡りバス
仙巌園から徒歩3分
カゴシマシティビュー
仙巌園から徒歩3分

 

 

鹿児島紡績所跡の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

鹿児島紡績所跡の総評

 

ちなみに、公式駐車場はありません。

周辺の仙巌園駐車場を御利用下さい。

料金は、1日300円です。

 

ほいほーい!

 

 

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