天璋院篤姫像は、鹿児島市城山町の鶴丸城にあります。
この記事では、篤姫の人生を簡単に紹介します。
天璋院篤姫の人生
誕生
幼名は、於一(おいち)といいました。
そして15才になった嘉永3年(1850年)、江戸幕府から島津家に、次期将軍・徳川家定との縁談話が舞い込んできました。
この頃の家定は、公家出身の夫人2人を相次いで亡くしたばかりでした。
そこで、子沢山で長寿だった祖父・徳川家斉と同じく、島津家から夫人を迎えることを強く希望しました。
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島津斉彬の養子に
体が丈夫で大きく、学問好きで聡明な於一を、斉彬は一目で気に入ったのです。
そして、嘉永6年(1853年)、於一は斉彬の養女となり、名を篤子(篤姫)と改めました。
こうして、入輿の準備が始まりました。
鶴丸城入り
そして約2ヵ月半の間、入輿の支度を整えました。
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近衛忠煕の養女に
そして、五摂関家の1つ・近衛忠煕の養女になりました。
当時、将軍の正室は皇族、もしくは摂家家の娘という決まりがありました。
入輿
そのため入輿は、延びに延びました。
しかし安政3年(1856年)、ようやく家定のもとへ輿入れしました。
薩摩を発って、3年が過ぎていました。
政治工作
当時の日本はペリーによる圧力などで、対外危機が差し迫っていました。
そのため斉彬は、聡明な慶喜の将軍就任を望んでいました。
篤姫付きの御年寄だった幾島は、西郷隆盛や橋本左内と政治工作に奔走。
しかし、将軍継嗣に多大な影響を持つ大奥は、慶喜の父親・水戸斉昭をひどく嫌っており、息子の慶喜も敬遠しました。
また、篤姫も家定に継嗣について切り出せず、家定の生母・本寿院や老女達の妨害で、断念しました。
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江戸無血開城
官軍は破竹の勢いで江戸に迫り、総攻撃を準備しました。
篤姫は使者の幾島に嘆願書を託し、慶喜の助命および徳川家の存続を、官軍参謀の西郷に要請しました。
西郷は嘆願書を一読後、涙を流しました。
そして手をつき、
「このようにご苦労遊ばれるとは何とも恐れ入り、言語に絶するところです」
と、答えました。
また、幕臣の山岡鉄舟や勝海舟の尽力もあり、江戸無血開城が決まりました。
死去
そして明治16年(1883年)、49才で亡くなりました。
天璋院篤姫像のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 本丸 午前9時~午後6時 |
二ノ丸 午前9時~午後9時 |
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休園日 | 本丸・二ノ丸 年中無休 |
黎明館・県立図書館 各HPを参照 |
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場所 | 鹿児島市城山町7-2 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 無料(黎明館・県立図書館利用者に限る) |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス 薩摩義士碑前から下車すぐ |
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カゴシマシティビュー 薩摩義士碑前から下車すぐ |
天璋院篤姫像の地図
天璋院篤姫像の総評
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