幾島招魂墓は、鹿児島市唐湊2丁目の唐湊墓地にあります。
この記事では、墓の概要と幾島の人生を簡単に紹介します。
幾島招魂墓の概要
出入口
まず、写真右上の青い建物を見つけて下さい。
次に、出入口にあたる船倉家と南家の墓を探して下さい。
出入口にあたる船倉家と南家の墓は、狭い道路沿いに建っています。
お車でお越しの場合は、対向車のすれ違いが可能なスペースにお停め下さい。
通路
墓石
これが、幾島招魂墓です。
招魂墓の高さは、約1.2m。
六角形の側面に、幾島の生涯が彫られています。
幾島の人生
誕生
文政3年(1820年)、13才の幾島は島津斉興の養女・郁姫に仕えるため、公家の近衛家に入ります。
そして文政8年(1825年)、近衛忠煕に郁姫が嫁ぎ、お付き女房となりました。
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篤姫の教育係と政治工作
得浄院と名乗り、近衛家に仕えていました。
しかし、13代将軍・家定と篤姫の縁組に伴い、教育係に抜擢されます。
篤姫と幾島は、藩主・島津斉彬から一橋慶喜の将軍継嗣の政治工作を託されていました。
しかし、継嗣に多大な影響を持つ大奥は、慶喜の父・水戸斉昭を、ひどく嫌っていました。
また、篤姫も夫の家定に切り出せず、家定の生母・本寿院や老女達の妨害もあり、幾島は慶喜擁立を断念しました。
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篤姫の嘆願書を西郷に渡す
篤姫の嘆願書を託されて使者となったのは、幕府御典医・浅田宗伯と幾島でした。
嘆願書を一読後、西郷は涙を流し、
「このようにご苦労遊ばれるとは何とも恐れ入り、言語に絶するところです。」
と、手を突いて答えたと伝わっています。
また、幕臣・山岡鉄舟と勝海舟らの交渉もあり、慶喜の助命と徳川家存続が決まりました。
幾島招魂墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市唐湊2丁目19番地 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 駐車スペースあり |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
唐湊福祉館前バス停から徒歩10分 |
幾島招魂墓の地図
幾島招魂墓の総評
解説板や案内板は、現地にありません。
事前に勉強すると、より感慨深い気持ちでお参りできますよ。
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