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益満休之助の墓

益満休之助の墓

益満休之助の墓

 

益満休之助って、だーれ?

 

幕末に江戸で撹乱工作を実行し、戊辰戦争のきっかけを作った人物です。

 

 

益満休之助の墓は、鹿児島市草牟田1丁目の草牟田墓地にあります。

 

この記事では

  • 墓の概要
  • 益満の後半生

を、簡単に紹介します。

 

 

益満休之助の墓の概要

草牟田駐車場

駐車場

駐車場

 

益満の墓に行くにはまず、草牟田墓地の駐車場を見つけて下さい。

国道3号線から曲がると、すぐに見えます。

 

はいはーい。

 

 

通路

通路

通路

 

駐車場手前を左に曲がると、細い通路があります。

こちらを、お通り下さい。

 

もうすぐかなー?

 

 

墓石

墓石

墓石

 

通路が終わったところに、益満家の墓域があります、

この中に、益満の墓があります。。

 

これか~!

 

 

益満休之助の後半生

ヒュースケン暗殺

 

万延元年(1860年)、即時攘夷派だった益満は、アメリカ公使館の通弁官・ヒュースケンを暗殺。

この事件の首謀者は、同じ薩摩藩士の伊牟田尚平でした。

 

そんなことしたんだ!

 

 

 

 

江戸撹乱

 

慶応3年(1868年)、旧幕府との開戦名目を得るため、江戸撹乱の命を藩から受けた益満と伊牟田は、浪士約500人を集めます。

そして、江戸の治安を預かる出羽庄内藩の屯所に浪士を押し掛けさせ、発砲事件を起こしました。

 

ええ~、そんなことも!

 

 

この事件に、旧幕府側は激怒。

 

薩摩藩邸上屋敷に、砲撃を実行しました。

 

伊牟田は逃亡するも、益満は捕縛されます。

 

そして死罪に処せられるところを、旧幕臣の勝海舟が預かり、九死に一生を得ました。

 

 

山岡鉄舟の護衛

 

益満や伊牟田の江戸撹乱を機に、旧幕府は討薩表を朝廷に上奏し、戊辰戦争が始まりました。

しかし15代将軍・徳川慶喜は、途中で江戸に帰還。

官軍に恭順の意を示すため、謹慎しました。

旧幕臣の山岡鉄舟は、慶喜の恭順意向を官軍参謀の西郷隆盛に伝えるため、江戸を出発。

勝は護衛兼案内役として、益満を同行させました。

 

こういう時のために、勝は益満を預かったんだね。

 

 

山岡は、東海道で多くの官軍に遭遇します。

 

しかし益満が

 

「薩州藩!」

 

と、名乗ってくれたおかげで、次々と道を通してくれました。

 

このような益満の働きにより、西郷と山岡の会談が駿河で実現。

 

2人の下交渉が西郷と勝の会談につながり、江戸総攻撃中止江戸無血開城が決まりました。

 

 

戦死

 

江戸無血開城後、抵抗を続ける一部の旧幕府軍との間で、上野戦争が勃発しました。

この戦いで益満は、右足のスネを被弾。

横浜に移送されるも破傷風にかかり、28才の短い生涯を終えました。

 

短く濃い人生だったんだね。

 

 

益満休之助の墓のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市草牟田1丁目9-19
料金 無料
駐車場 無料
アクセス 鹿児島空港から車で30分
鹿児島中央駅から車で10分
草牟田バス停から徒歩3分
電話 099-227-1167

 

 

益満休之助の墓の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

益満休之助の墓の総評

 

幕末の薩摩では西郷さんが1番有名だけど、益満のように裏で活動した人もいたんだね。

 

歴史の表舞台に出ずとも、歴史を変えた人物は沢山います。

益満も、その1人です。

 

 

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