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伊牟田尚平誕生地

伊牟田尚平誕生地

伊牟田尚平誕生地

 

伊牟田尚平って、だーれ?

 

幕末に江戸を撹乱し、戊辰戦争のきっかけを作った人物です。

 

 

伊牟田尚平誕生地は、鹿児島市喜入町にあります。

 

この記事では、伊牟田の後半生を簡単に紹介します。

 

 

伊牟田尚平の後半生

ヒュースケン暗殺

 

万延元年(1860年)、即時攘夷派だった伊牟田は、アメリカ公使館の通弁官・ヒュースケンを暗殺。

実行者は、同じ薩摩藩士の益満休之助。

伊牟田は、暗殺計画の首謀者でした。

 

おおふ、そんなことをやったんだ。

 

 

のちに伊牟田は、江戸藩邸を脱走。

 

脱藩浪士となり、即時攘夷派の仲間と交流を深めました。

 

 

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恐喝・流島

 

文久2年(1862年)、薩摩藩の国父・島津久光は、国事周旋のために率兵上京を行います。

これに乗じようと、伊牟田は同じ即時攘夷派の有馬新七らと、反幕の挙兵を計画しました。

 

ふむふむ。

 

 

しかし、久光の大叔父であった筑前藩主・黒田長溥が、久光の国事周旋を思い留まらせるため、参勤交代途中の伏見で会見するとの情報を得ました。

 

仮に久光が国事周旋を止めたら、挙兵計画も水の泡。

 

そこで伊牟田は、大胆な行動に出ます。

 

 

 

伊牟田は久光の使者を装い、長溥の本陣が置かれた播磨へ到着。

そして、

「仮に久光と面会すれば、井伊直弼>のように過激な者に殺されるかもしれないので、ご注意を」

と、脅しにも似た口上を述べました。

 

何が何でも、長溥と久光を会わせないようにしたんだね。

 

 

驚いた長溥は病気と称し、参勤を中止。

 

面会の妨害は、一応成功しました。

 

しかし、この1件が久光の耳に入り、伊牟田は捕縛されます。

 

そしてトカラ列島の悪石島や、種子島に流されました。

 

 

江戸撹乱

 

捕縛から2年後の元治元年(1864年)、伊牟田は赦免されます。

そして慶応3年(1868年)、伊牟田と益満に、江戸撹乱の藩命が下されました。

薩摩と幕府の間で衝突を起こし、武力倒幕の名目を得るためです。

 

どう見ても汚れ役だけど、反幕の伊牟田は乗り気だったろうね。

 

 

伊牟田と益満は、約500名の浪人を集めます。

 

そして、江戸の治安を預かる出羽庄内藩の屯所に押し掛けさせ、発砲。

 

伊牟田は、江戸城二ノ丸に忍び込んで放火しました。

 

 

強盗・処刑

 

これらの事件を機に、ついに幕府は討薩表を上奏。

戊辰戦争が始まります。

官軍側は、連戦連勝。

しかし北越戦線では、苦戦が続いていました。

 

そう簡単に勝たせてくれなかったんだね。

 

 

薩摩藩の幹部・吉井友実は、

 

「今度、参謀として越後出張が決まった。

 

同行してくれたら、新政府への登用も考えよう」

 

と、伊牟田を誘います。

 

 

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これに応じて、伊牟田は仲間を勧誘。

 

しかし脱藩浪士達に、先立つものはありませんでした。

 

そのため伊牟田と仲間達は、近江の豪商を襲撃。

 

約4千両を盗むも御用となり、打首獄門に処されました。

 

 

伊牟田尚平誕生地のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市喜入町
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で1時間5分
鹿児島中央駅から車で40分
旧市バス停から徒歩3分

 

 

伊牟田尚平誕生地の地図

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伊牟田尚平誕生地の総評

伊牟田尚平誕生地

伊牟田尚平誕生地

 

ちなみに誕生地には、消火栓が設置してあります。

 

江戸城放火を知ってのことかな(笑)

 

 

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