私学校生徒が草牟田の火薬庫を襲撃したため、西南戦争が起きてしまったんです。
陸軍火薬庫跡は、鹿児島市草牟田1丁目の草牟田墓地にあります。
この記事では、陸軍火薬庫の概要や、私学校生徒による襲撃の経緯を紹介します。
陸軍火薬庫跡の概要
草牟田墓地駐車場
まずは墓地出入口にあたる、駐車場を探して下さい。
石碑①
〈陸軍火薬庫跡〉と刻まれてますが、実は火薬庫があったのは、ここではありません。
草牟田墓地通路
ちなみに、通路は徐々に狭くなります。
車ではなく、必ず徒歩で上がって下さい。
石碑②
知る人ぞ知る石碑ニャ。
陸軍火薬庫があった場所
先ほどの石碑後方です。
火薬が置かれたため、万一の爆発を考慮し、谷中にあったと考えられます。
私学校生徒による陸軍火薬庫襲撃の経緯
武器の搬出
明治政府の木戸孝允は、火薬・銃器が作られ火薬庫もある鹿児島に、それらを置くのは危険と判断。
大阪に移すよう、主張します。
実際に当時の鹿児島では、政府への不満が充満していました。
たしかに危険ニャ。
木戸の主張は、いったん退けられました。
しかし鹿児島の情勢は、さらに不穏に。
そこで政府は、明治10年(1877年)1月29日の夜、武器弾薬を船に乗せ、大阪に搬出することにします。
政府が鹿児島の武器弾薬の移動を行う際、まずは県庁に届ける決まりでした。
ところが政府は、届出をしなかったのです。
一報
そして、政府による武器搬出の報せを聞いた3人は、私学校の夜間生徒と、草牟田の火薬庫を襲撃。
小銃や弾薬を略奪しました。
翌日には、私学校生徒約1,000名が、再襲撃。
翌々日には、磯の海軍造船所の火薬も襲撃し、同じく小銃と弾薬を奪いました。
陸軍火薬庫跡のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市草牟田1丁目9-26 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 無料 |
アクセス | 鹿児島空港から車で30分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
草牟田バス停から徒歩3分 | |
電話 | 草牟田墓地 099-227-1167 |
陸軍火薬庫跡の地図
陸軍火薬庫跡の総評
そのなかの1人、中原尚雄は拷問により、鹿児島の実質的なリーダー・西郷隆盛の暗殺命令を吐きました。
狩猟先の根占で弟の小兵衛から一報を聞いた西郷は、
「ちょ、しもた!」(しまった!)
と、叫びました。
後日、鹿児島の武屋敷に戻った西郷は、詰めかけた私学校生徒を激しく叱責。
息子の菊次郎は、
「あの時ほど父が大きな声で人を叱りつけたのは、聞いたことがない。」
と、証言しています。
また西郷は、自身への暗殺命令を信じていました。
この暗殺疑惑が、挙兵の大義名分となりました。
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