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楠公神社跡

楠公神社跡

楠公神社跡

 

漢字に弱くてごめん!

「くすこう神社跡」って読むの?

 

惜しいです!

「なんこう神社跡」と読みます。

楠公とは、かつて後醍醐天皇を助けた忠臣・楠木正成のことです。

戦前は、大楠公として崇められました。

 

 

楠公神社跡は、鹿児島市石谷町にあります。

 

この記事では、楠公神社跡の概要や、歴史と逸話を紹介します。

 

 

楠公神社跡の概要

出入口

出入口

出入口

 

楠公神社跡の出入口は、市道に面しています。

案内板は、とても小さいです。

車でお越しの方は見逃さないように、現場近くでスピードを落として下さいね。

 

見逃したら、周辺をグルグル回っちゃいそうだね。

 

 

旧参道

旧参道

旧参道

 

出入口すぐ近くに、旧参道の小道があります。

ここを通って行きましょう。

 

おおふ、草ボーボー。。

マムシがいないか、ちょっと心配。。

 

 

旧参道

旧参道

 

小道を抜けると、次は階段状の坂が待っています。

ここを登って行きましょう。

 

小さい坂だから、キツくはなさそうだね。

 

 

石碑

石碑

石碑

 

坂を登ると、かつて拝殿があった場所に、楠公神社を偲ぶ石碑が建っています。

ちなみに石碑に刻まれている紋章は、正成の家紋・菊水です。

周辺にある石谷小学校の校章は、この家紋をアレンジして作られました。

 

へ~っ!

 

 

 

 

楠公神社跡の歴史・逸話

創建

 

一説によると、文久元年(1861年)に有馬新七が、地元の領主・町田家に伝わる正成の木像を、御神体として建立したのが始まりと言われています。

有馬は、熱烈な尊王攘夷の志士でした。

 

なるほど。

だから、後醍醐天皇を助けた正成を祀る神社を建てたんだね。

 

 

また大久保利通は、材木を運んで建築を助太刀。

 

落成式典にも駆け付けました。

 

 

参拝者

大久保利通肖像写真

大久保利通肖像写真

 

その大久保は、国父・島津久光の側近でした。

文久2年(1862年)、久光は率兵上京による文久の改革に成功。

大久保は帰国後、楠公神社にお礼参りをしました。

 

文久の改革?

 

 

文久の改革とは、久光や朝廷によって果たされた幕政改革のことです。

 

安政の大獄で謹慎中だった一橋慶喜の将軍後見職と、松平春嶽の政事総裁職就任を成し遂げました。

 

 

若き薩摩の群像

若き薩摩の群像

 

慶応元年(1865年)、イギリス留学や同国との外交・経済交渉のため、約20名の若者が鹿児島を発ちます。

当時、海外渡航は御法度でした。

 

命がけの事業だね。

でも、いち早く外国の知識や技術を得るために、必要だったんだろうね。

 

 

若者達は出港地の串木野に向かう道中、楠公神社に参拝します。

 

留学生の1人・町田久成は、地元石谷の領主で、かつて有馬に統治を託した過去がありました。

 

有馬が楠公神社を建てたのも、その統治期間中でした。

 

 

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約3年前の文久2年(1862年)、有馬は寺田屋騒動で命を落としました。

もしかすると、神社への参拝は久成の提案で、亡き有馬への報告も兼ねていたかもしれませんね。

 

有馬は尊王攘夷の志士だったから、生きてたら渡航に反対したかもね(笑)

 

 

楠公神社跡のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市石谷町913
料金 無料
駐車場 駐車スペースあり
アクセス    鹿児島中央駅から車で15分
農協前バス停から徒歩5分

 

 

楠公神社跡の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

楠公神社跡の総評

 

スーパーマニアックな観光スポットです。

県外から訪れる人は、生粋の歴史好きと言っても過言ではありません。

 

ある意味、試される場所なんだね(笑)

 

 

なお、夏場は蚊が多いです。

 

虫除けスプレーを掛けて、ご見学下さい。

 

 

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