私学校跡は、鹿児島市城山町にあります。
この記事では、私学校跡の概要と歴史を紹介します。
私学校跡の概要
正門跡
現在、学校の遺構は正門跡と石塀のみです。
跡地には、病院が建っています。
石垣・弾痕跡
これは、西南戦争の弾痕跡です。
明治10年(1877年)9月1日、熊本から宮崎を経由し、西郷軍500人が鹿児島に帰還します。
私学校を占領していた官軍を追い払った後、城山に布陣。
以降、西郷が亡くなる9月24日まで、戦闘が行われました。
弾痕跡は、その当時のものです。
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私学校跡の歴史
創立
この時、約600人の鹿児島出身の官僚・軍人も辞し、故郷に戻りました。
しかし、暇を持て余して飲んで暴れるなど、素行の悪さが目立ち始めました。
そこで、旧近衛歩兵の渋谷精一が、
「彼らに方途を与えるために学校を作って欲しい」
と、西郷に依頼。
これにより明治7年(1874年)、私学校が創立されました。
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授業内容
篠原国幹と村田新八が、それぞれ監督に就任。
桐野利秋や別府晋介も、私学校幹部に就きました。
ただし西郷は、私学校の運営・指導には関わりませんでした。
生徒は、午前中に登校。
軍事教練や、漢学の講義が行われました。
また、旧薩摩藩の慣行に従い、島津歳久を祀る平松神社に参拝するなどしました。
分校設立
あとで増えたの?
明治8年(1875年)頃、西郷に近い私学校有力者が、県内の区長に相次いで就任しました。
その区長らが、多くの士族を私学校を勧誘。
これにより、城下に12、県下に136の分校が設立されました。
生徒による火薬庫襲撃
警察人事も私学校が掌握し、鹿児島は独立国家の様相を帯びてきました。
そこで政府は反乱の芽を摘むため、磯の火薬庫から武器を搬出。
これに対し、
「鹿児島で造った武器は、鹿児島のもの」
と、考えていた私学校生徒は、草牟田や磯の火薬庫を襲い、武器を強奪しました。
閉校
その結果、一連の事態に対する大久保利通への尋問を名目に、挙兵上京が決まりました。
こうして西南戦争が始まるも、西郷軍は敗北。
私学校は、自然消滅という形の閉校となりました。
私学校跡のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市城山町8 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス 薩摩義士碑前から徒歩3分 |
|
カゴシマシティビュー 薩摩義士碑前から徒歩3分 |
私学校跡の地図
私学校跡の総評
「オイの命、おはんらに預けもんそ」
と発言しています。
半ば、諦めに近い心境だったのかもしれませんね。
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