生涯最後の住まいとなった屋敷が、旧武村にありました。
西郷武屋敷跡は、鹿児島市武2丁目にあります。
この記事では、屋敷跡の概要と逸話を紹介します。
西郷武屋敷跡の概要
出入口
そのため、出入口が複数あります。
今回は、西側から入ってみましょう。
徳の交わり銅像
明治元年(1868年)の戊辰戦争で、西郷は降伏した庄内藩に、寛大な処分を決定。
これを機に、同藩家老・菅実秀は、西郷と交流を深めました。
交流する2人の姿が、銅像になったんだね。
菅は実際に、武屋敷を訪れたの?
明治8年(1875年)、菅は武屋敷を訪れ、西郷から約20日教えを受けました。
平成3年(1991年)に銅像が建立され、平成13年(2001年)には、山形県酒田市の南洲神社にも建てられました。
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元庄内藩主・酒井忠篤は、数千部の本を旧藩士に持たせて、全国に配布するように指示。
今日の西郷像が全国に広まったのは、菅と忠篤の尽力によるものです。
南洲翁使用の井戸
この井戸水を汲んで西郷は顔を洗い、行水をし、屋敷の畑に捲きました。
西郷武屋敷跡の逸話
上之園から引っ越す
元は藩中の寄合家・二階堂家の中屋敷で、所有者の三崎平太左衛門に分けて貰った家でした。
広さは、約1500坪。
高縁の御殿造りで部屋数も多く、庭には大きな松の木が4、5本ありました。
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菊次郎と菊草を引き取る
後年、菊次郎の妹・菊草も鹿児島に呼び寄せました。
2人は、西郷の2番目の妻・愛加那の子供でした。
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面会人を避ける
しかし来客が多いため、西郷は西別府の開墾地で多くの時間を過ごしました。
西郷は、頃合いを見て武屋敷に帰るのが常でした。
しかし、西郷の帰りを待っている客も沢山いました。
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私学校生徒を叱責
これに対し、生徒達は草牟田と磯の火薬庫を襲い、武器を強奪しました。
保養先の小根占村から帰って来た西郷は、武屋敷に詰め掛けた生徒達を激しく叱責。
菊次郎は、
「あの時ほど、父が大声で人を叱りつけたのは聞いたことがない。」
と、後年語っています。
焼失と再建
その後、武屋敷は政府軍によって焼失。
約1000冊の蔵書も、すべて灰となりました。
戦後、西郷の弟である従道が再建を申し出ますが、糸は拒否。
そこで従道は、戦死した弟・小兵衛の長男である幸吉を名義に、武屋敷を再建しました。
西郷武屋敷跡のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市武2丁目28-7 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で3分 | |
鹿児島中央駅から徒歩5分 | |
まち巡りバス 鹿児島中央駅から徒歩10分 |
|
カゴシマシティビュー 鹿児島中央駅から徒歩10分 |
西郷武屋敷跡の地図
西郷武屋敷跡の総評
鹿児島中央駅周辺のホテルにチェックインした後、フラッと寄るような、そんな場所です。
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