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西郷菊次郎の墓

西郷菊次郎の墓

西郷菊次郎の墓

 

西郷菊次郎って、西郷隆盛と関係があるの?

 

菊次郎は隆盛の初めての子供で、奄美大島で生まれました。

 

 

西郷菊次郎の墓は、鹿児島市常盤2丁目の西郷家の墓にあります。

 

この記事では、菊次郎の人生を簡単に紹介します。

 

 

西郷菊次郎の人生

誕生

 

奄美大島に潜居中だった隆盛は、安政6年(1859年)に地元の女性・愛加那と結婚します。

その翌年に、菊次郎が誕生。

西郷家の祖先は、肥後・菊池一族との伝承から、〈菊〉の字が付けられました。

 

へ~っ!

 

 

鹿児島へ

西郷武屋敷跡

西郷武屋敷跡

 

8才になった明治2年(1869年)、菊次郎は鹿児島の西郷家に引き取られます。

当時の隆盛の妻は、糸でした。

 

菊次郎にとって、糸は新しい母親だったんだね。

 

 

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アメリカ留学

村田岩熊の墓

村田岩熊の墓

 

明治5年(1872年)から約2年半、菊次郎は農学を学ぶためにアメリカに留学します。

この時、村田新八の長男・岩熊と一緒でした。

岩熊の留学は、鉱山学を学ぶためでした。

 

隆盛と新八は、これからの時代に農業と鉱山が必要と感じて、2人を留学させたのかもね。

 

 

西南戦争

 

しかし明治10年(1877年)に、西南戦争が勃発します。

すでに帰国していた17才の菊次郎は、西郷軍の一員として戦いました。

しかし、銃弾を受けて右足を切断。

可愛岳突破前、指揮官・桐野利秋の計らいで、他の負傷兵と残されました。

 

え!

右足を切断したんだ!

 

 

従僕の熊吉は菊次郎を背負い、隆盛の弟・西郷従道のもとに投降。

 

従道は甥の生存に大変喜び、熊吉に礼を述べました。

 

 

愛加那との同居

 

西南戦争終結から1年後の明治11年(1878年)、療養中の菊次郎は愛加那へ手紙を出し、10円(今の価値で約50~60万円)を送金します。

その後、奄美大島で母と1年間暮らしました。

 

菊次郎の負傷や隆盛の死を知った愛加那は、辛かったかもね。

 

 

出仕

 

その後、菊次郎は明治政府に出仕します。

台湾・宜蘭市長や京都市長を勤め上げ、帰郷後は永野金山鉱業館長に就任。

従業員子弟のため、夜間学校を私費で創立しました。

 

隆盛も、草葉の陰で喜んだんじゃないかな。

 

 

死去

西郷菊次郎の墓

西郷菊次郎の墓

 

菊次郎は隠居後、鹿児島市薬師町に在住しました。

大正11年(1922年)には西郷家の墓を、松原神社から近所の常盤町に改葬します。

そして昭和3年(1928年)、自宅で69才の生涯を終えました。

 

当時としては、ずいぶん長生きしたんだね。

 

 

 

 

西郷菊次郎の墓のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市常盤2丁目2-14
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で10分
鹿児島中央駅から徒歩20分
花岡通バス停から徒歩5分

 

 

西郷菊次郎の墓の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

西郷菊次郎の墓の総評

 

隆盛ほどの知名度はありませんが、息子の中で一番有名です。

 

右足を切断したのに多くの役職を務めたなんて、凄いね。

 

 

墓碑銘を書いたのは、首相を務めた吉田茂。

 

これも密かなチェックポイントです。

 

 

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