川口雪篷の墓は、鹿児島市坂元町の坂元墓地にあります。
この記事では、墓の概要と雪篷の人生を、簡単に紹介します。
川口雪篷の墓の概要
出入口
そのため、これから説明する目印を頼りに訪ねて下さい。
坂元墓地に到着後、まずは写真右奥の上之園花屋をお探し下さい。
花屋近くに、玉泉院の電柱広告があります。
ここが、雪篷の墓の出入口です。
通路
こちらを、お上り下さい。
ここを左に曲がります。
墓石
この右側にある墓が、もしかして!
こちらが雪篷の墓になります。
思ったよりも近かったね。
川口雪篷の人生
流島
陽明学を修め、書道も相当の腕を持っていました。
そのため学問好きの島津久光に召され、写学生として仕えていました。
ところが久光の書物を質に入れ、酒代に変えていたことが発覚。
この罪で、沖永良部島に流されました。
西郷との出会い
雪篷は西郷に興味を持ち、やがて2人は交流を始めます。
雪篷は書を教え、西郷の書風に大きな影響を与えます。
また、2人は
- 陽明学
- 朱子学
について熱く議論するなど、親交を深めていきました。
居候
雪篷も、慶応元年(1865年)の頃に赦免。
城下に戻った後、西郷家の居候になりました。
みたいな感じで、居候したの?(笑)
実はこの2人、先に鹿児島に戻った方が、後から戻ってきた方を養う約束を交わしていました。
しかし居候といえども、雪篷は執事のような立場で働きました。
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西南戦争
ここで雪篷は子供たちを厳しく教育し、学問を教えました。
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戦後
ここでも子供達への教育を続けます。
また、西郷の書を模して売り、家計を支えました。
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戦没者墓銘揮毫
それが、現在の南洲墓地です。
雪篷は、以下の者達の墓銘を揮毫。
- 西郷隆盛
- 村田新八
- 大山綱良
- 篠原国幹
- 西郷小兵衛
その独自の書風により、存在感のあるお墓が建立されました。
死去
しかし明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈されます。
西郷の名誉回復を見届けた雪篷は、明治23年(1890年)、武屋敷で亡くなりました。
享年73才。
墓には、川口雪篷香雲之墓と彫られています。
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川口雪篷の墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市坂元町19 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 駐車スペースあり |
アクセス | 鹿児島中央駅から車で15分 |
坂元郵便局前バス停から徒歩5分 |
川口雪篷の墓の地図
川口雪篷の墓の総評
ちなみに、墓の出入口周辺に駐車禁止の標識はありません。
車で来られた方も、安心してお参りできます。
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