今回紹介するのは、2つ目の宅地跡です。
西郷南洲翁宅地跡は、鹿児島市上之園町の共研公園にあります。
この記事では、西郷南洲翁宅地跡の概要や、逸話を紹介します。
西郷南洲翁宅地跡の概要
出入口
共研公園の出入口は、ナポリ通りにあります。
鹿児島中央駅からお越しの場合、タクシーやバスより徒歩の方が早く着きます。
石碑
初代の石碑は、昭和9年(1934年)に建てられました。
しかし第2次世界大戦で失われたため、戦後に復元されました。
共研公園
共研公園には、ベンチ・トイレなどが設置されています。
小休憩にも、御利用下さい。
西郷南洲翁宅地跡の逸話
加治屋町から引っ越す
西郷26才の嘉永5年(1852年)、祖父、父、母の3人が相次いで亡くなり、生活が苦しくなります。
そのため、安政2年(1855年)に加治屋町の生家を売り、上之園町に引っ越しました。
西郷の看護
安政の大獄で幕吏に追われた西郷は、勤王の僧・月照と真冬の錦江湾へ入水しました。
絶対に冷たいっ......!
月照は息絶えましたが、西郷は奇跡的に息を吹き返しました。
その後、上之園の自宅で大久保利通や有村俊斎、吉井友実や、次男の吉二郎が看護しました。
しかし、自殺をほのめかす言葉を繰り返し呟いたため、家族は刃物をすべて隠しました。
祖母・常の死
文久元年(1861年)に帰藩命令を受けますが、国父・島津久光の命令に背くなどし、文久2年(1862年)、山川沖の天佑丸に滞留させられました。
滞留中、祖母の常>が上之園町の自宅で死去します。
しかし罪人であったため、葬儀への出席は認められませんでした。
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岩山糸との結婚
また、同年の第1次長州征伐の回避にも成功し、慶応元年(1865年)に帰藩しました。
帰藩後、家老座書役・岩山八郎太の娘である糸との縁談話が持ち上がります。
渋る西郷のもとに、仲介役の有川矢九郎が糸をいきなり連れて行き、ようやく承諾させて新婚生活が始まりました。
川口雪篷の居候
雪篷と西郷は、先に罪を赦された帰藩者が、後の帰藩者を養う約束をしていました。
西郷は約束を守り、雪篷は子供達の先生となりました。
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坂本龍馬の宿泊
ある雨の降る夜、寝付けなかった龍馬は、雨漏り屋根の修繕を頼む糸の声を聴きました。
西郷は、
「日本中が雨漏りをしていて、修理しているところだから、少し待って欲しい」
と答え、龍馬は感心したと伝わっています。
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寅太郎誕生
慶応2年(1866年)は寅年だったため、寅太郎と名付けられました。
のちに生まれた午次郎、酉三の弟2人の名前も、干支にちなんだものでした。
従道の祝言
2人は、上之園の家で祝言を挙げました。
しかし、当時の西郷家はまだ貧乏で、蚊帳も食器も人数分が揃っていませんでした。
新婚初夜、2人は一晩中扇子で蚊を追い払い、後日この話を聞いた得能家から、家族10人分の蚊帳と食器が届けられました。
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武屋敷へ引っ越す
武屋敷は、もとは藩中の寄合家・二階堂家の中屋敷でした。
高縁の御殿造りで部屋数も多く、広さは約1500坪もありました。
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西郷南洲翁宅地跡のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市上之園町10-13 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で3分 | |
鹿児島中央駅から徒歩5分 | |
まち巡りバス 維新ふるさと館前から徒歩5分 |
|
カゴシマシティビュー 維新ふるさと館前から徒歩3分 |
西郷南洲翁宅地跡の地図
西郷南洲翁宅地跡の総評
西郷隆盛誕生地から、徒歩3分で着きます。
鹿児島中央駅から観光巡りを始める場合、西郷隆盛誕生地よりも近い、西郷南洲翁宅地跡から訪れると良いでしょう。
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