明治10年(1877年)、西南戦争で亡くなりました。
西郷小兵衛の墓は、鹿児島市上竜尾町の南洲墓地にあります。
この記事では、小兵衛の人生を簡単に紹介します。
西郷小兵衛の人生
誕生
長男・隆盛とは、20才も年が離れていました。
また、6才の時に両親と死別という悲しい出来事がありました。
出仕
そして文久元年(1861年)、15才の小兵衛は、御代官書役助として藩に出仕しました。
しかし隆盛が、薩摩藩国父・島津久光の怒りを買い、徳之島や沖永良部島へ流罪。
三兄・従道は、寺田屋事件で謹慎処分を受けます。
これにより、西郷家の知行と家財は没収。
小兵衛は、勤方差控・遠慮の処分を受けました。
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戊辰戦争・上京
戊辰戦争では、薩摩藩一番隊大砲隊に所属し、奥羽戦線などを転戦。
その功績により、賞典禄8石を賜りました。
当時20才過ぎの小兵衛は、隆盛の意向もあり、学問の道に進みました。
明治4年(1871年)から京の陽明学者・春日潜庵の塾で学び、その後、東京で漢学と洋学を学びました。
帰郷・結婚
小兵衛は帰郷後すぐ、従兄弟の大山巌の姪・松子(16才)と結婚します。
その後、加世田郷の副区長に就任し、明治9年(1876年)には、長男・幸吉が生まれました。
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西南戦争
小兵衛は、小根占村で狩猟していた隆盛に、急ぎ事件を伝えました。
後日、隆盛は挙兵上京を決断。
小兵衛は部隊編成を行い、一番大隊一番小隊長を務めました。
戦死
ここに、西南戦争の幕が上がりました。
途中、小兵衛は熊本から高瀬(現在の玉名市)に移動します。
そして、繁根木川を境に政府軍と戦闘中、胸を貫かれました。
最後の言葉は、
「兄に、『戦いは思い通りにいかなかった。
先に逝ってすまぬ』と伝えてくれ。」
でした。
西郷小兵衛の墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市上竜尾町2-1 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 無料 |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス 南洲公園入口から徒歩5分 |
|
カゴシマシティビュー 西郷南洲顕彰館前から下車すぐ |
西郷小兵衛の墓の地図
西郷小兵衛の墓の総評
墓は、隆盛の墓の後ろにあります。
墓名を揮毫したのは、西郷家に居候していた書家、川口雪篷でした。
それから58年後の昭和10年(1935年)、
「西郷小兵衛戦死の地」
の石碑が、現地に建てられました。
未亡人になった松子は、撃たれた夫を運ぶために雨戸を提供してくれた橋本家に、感謝状と管理料2円の小為替を送りました。
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