鹿児島中央駅エリア

樺山資紀邸跡

樺山資紀邸跡

樺山資紀邸跡

 

樺山資紀(すけなり)って、だーれ?

 

明治10年(1877年)の西南戦争で熊本城に籠城し、西郷軍と戦った軍人です。

 

 

樺山資紀邸跡は、鹿児島市中央町にあります。

 

この記事では、樺山の人生を簡単に紹介します。

 

 

樺山資紀の人生

誕生・養子入り

橋口伝蔵の墓

橋口伝蔵の墓

 

天保8年(1837年)、樺山は薩摩藩士・橋口与三次の三男として生まれました。

 

ふむふむ。

 

 

6つ上の次兄は、寺田屋騒動で闘死した橋口伝蔵でした。

 

樺山は、幼少時に茶坊主として薩摩藩に出仕。

 

のちに樺山四郎左衛門の養子となり、同家を継ぐことになりました。

 

 

関連記事

 

 

陸軍へ

御楼門

鶴丸城 御楼門

 

慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まると、樺山は伏見から東北まで転戦。

時代が明治になると、陸軍に入りました。

 

軍人になったのも、戊辰戦争を経験したからかもね。

 

 

明治5年(1872年)には、鶴丸城に置かれた鎮西鎮台第二分営長に就任します。

 

明治7年(1874年)には、台湾出兵に参戦。

 

現地で功績を挙げ、陸軍中佐に昇進しました。

 

 

関連記事

 

 

 

西南戦争

熊本城

熊本城

 

明治9年(1876年)には、熊本鎮台参謀長に就任。

しかし、翌年に西南戦争が始まり、樺山のいる熊本城は西郷軍から攻撃を受けました。

 

それで、どうなったの?

 

 

樺山は鎮台司令長官・谷干城を補佐し、熊本城を死守。

 

52日間の戦いを乗り切りました。

 

 

海軍へ転進

 

戦後は陸軍大佐・陸軍少将に昇進するも、のちに海軍に転進。

海軍大輔、海軍次官、海軍大臣、海軍大将を務めました。

 

陸軍と海軍はまったく違うのに、トップまで務めたんだ~。

 

 

西郷隆盛銅像建設委員長・死去

 

明治22年(1889年)になると、西南戦争で対峙した西郷隆盛の名誉が回復されます。

のちに上野の銅像計画が立案され、樺山は建設委員長に就きました。

 

敵将の銅像計画を推進したんだ!

 

 

樺山など政府要人は、西南戦争は西郷の本意でなかったと、充分認識していました。

 

銅像は、明治31年(1898年)に完成。

 

そして、大正11年(1922年)に樺山は86才で亡くなりました。

 

 

樺山資紀邸のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市中央町4-33
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で1分
鹿児島中央駅から徒歩5分
まち巡りバス
鹿児島中央駅から徒歩5分
カゴシマシティビュー
鹿児島中央駅から徒歩5分

 

 

樺山資紀邸の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

樺山資紀邸跡の総評

樺山資紀邸跡

樺山資紀邸跡

 

現地に解説板はありません。

かつての顕彰板と思われるものもありますが、現在は失われています

 

せめて解説板は欲しいね~。

 

 

この記事の参考文献はこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

-鹿児島中央駅エリア
-樺山四郎左衛門, 樺山資紀, 橋口与三次, 橋口伝蔵, 西郷隆盛, 谷干城