樺山資紀邸跡は、鹿児島市中央町にあります。
この記事では、樺山の人生を簡単に紹介します。
樺山資紀の人生
誕生・養子入り
6つ上の次兄は、寺田屋騒動で闘死した橋口伝蔵でした。
樺山は、幼少時に茶坊主として薩摩藩に出仕。
のちに樺山四郎左衛門の養子となり、同家を継ぐことになりました。
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陸軍へ
時代が明治になると、陸軍に入りました。
明治5年(1872年)には、鶴丸城に置かれた鎮西鎮台第二分営長に就任します。
明治7年(1874年)には、台湾出兵に参戦。
現地で功績を挙げ、陸軍中佐に昇進しました。
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西南戦争
しかし、翌年に西南戦争が始まり、樺山のいる熊本城は西郷軍から攻撃を受けました。
樺山は鎮台司令長官・谷干城を補佐し、熊本城を死守。
52日間の戦いを乗り切りました。
海軍へ転進
海軍大輔、海軍次官、海軍大臣、海軍大将を務めました。
西郷隆盛銅像建設委員長・死去
のちに上野の銅像計画が立案され、樺山は建設委員長に就きました。
樺山など政府要人は、西南戦争は西郷の本意でなかったと、充分認識していました。
銅像は、明治31年(1898年)に完成。
そして、大正11年(1922年)に樺山は86才で亡くなりました。
樺山資紀邸のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市中央町4-33 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で1分 | |
鹿児島中央駅から徒歩5分 | |
まち巡りバス 鹿児島中央駅から徒歩5分 |
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カゴシマシティビュー 鹿児島中央駅から徒歩5分 |
樺山資紀邸の地図
樺山資紀邸跡の総評
かつての顕彰板と思われるものもありますが、現在は失われています
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