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有村雄助・次左衛門誕生地

有村雄助・次左衛門誕生地

有村雄助・次左衛門誕生地

 

有村雄助と次左衛門は、何をした人達なの?

 

2人は即時攘夷派の兄弟で、徳川幕府の大老・井伊直弼の暗殺に関わりました。

 

 

有村雄助・次左衛門誕生地は、鹿児島市高麗町にあります。

 

この記事では

  • 有村兄弟と桜田門外の変
  • 誕生地の逸話

について、紹介します。

 

 

有村雄助・次左衛門と桜田門外の変

安政の大獄

 

安政5年(1858年)、戊午の密勅関係者や日米修好通商条約の反対者を、直弼は処分します。

罪人は、100名以上にのぼりました。

これを、『安政の大獄』と呼びます。

 

事実上の弾圧だねえ......。

 

 

義憤に駆られた2人は、脱藩。

 

水戸藩浪士と、直弼の襲撃計画を立てました。

 

そして、野太刀顕流(薬丸自顕流)の剣豪だった弟の次左衛門が、襲撃に加わることになりました。

 

 

襲撃

 

安政7年(1860年)3月3日の午前8時頃、江戸城桜田門外で、水戸藩浪士と次左衛門の計18名が、登城中の直弼の行列を襲撃しました。

この中で唯一の薩摩藩士だった次左衛門は、直弼の首級を上げました。

 

おお......!

 

 

しかし首を持ち去る途中、井伊家家臣・小河原秀之丞に背後から斬られ、重傷を負いました。

 

そして、若年寄・遠藤胤統の辻番所前で力尽き、自決。

 

暗殺に成功するも、享年22才の若さで亡くなりました。

 

 

雄助の切腹

有村雄助・次左衛門誕生地

有村雄助・次左衛門誕生地

 

兄・雄助は暗殺成功を見届け、挙兵すべく京に向かうも、道中の伊勢四日市で薩摩藩捕吏に捕まります。

 

暗殺関与を、既に知られてしまったんだね。

 

 

安政7年(1860年)3月24日、母・蓮子(蓮寿尼)や精忠組の面前で、雄助は京の方角を拝し、自宅で切腹。

 

介錯がつかない、異例の割腹でした。

 

享年26。

 

 

有村雄助・次左衛門誕生地の逸話

西郷の落涙

 

桜田門外の変の頃、西郷隆盛は奄美に流島中でした。

流島のきっかけとなった安政の大獄の張本人・直弼の死を知り、西郷は歓喜。

下戸にも関わらず、夜を徹して宴を開きました。

 

人の死で宴は不謹慎な気がするけど、弾圧が過酷だった裏返しかもね。

 

 

文久2年(1862年)、西郷は奄美から戻ってきました。

 

すぐに上之園の自宅に帰宅せず、まずは福昌寺にある主君・島津斉彬の墓参後に有村家を訪れ、位牌を拝んで涙しました。

 

 

 

 

有村雄助・次左衛門誕生地のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市高麗町13
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で5分
鹿児島中央駅から徒歩15分
まち巡りバス
維新ふるさと館前から徒歩10分
カゴシマシティビュー
維新ふるさと館前から徒歩10分

 

 

有村雄助・次左衛門誕生地の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

有村雄助・次左衛門誕生地の総評

 

2人とも若くして亡くなったんだね。

 

幕末の志士で亡くなった人は、20代~30代が多いですね。

 

 

誕生地は現在、一般住宅が建っています。

 

敷地内には、決して無断で立ち入らないで下さい。

 

 

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