

西郷隆盛誕生地は、鹿児島市加治屋町にあります。
この記事では、誕生地の概要や逸話を紹介します。
この記事は、2023年6月6日(火)に更新されました。
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西郷隆盛誕生地の概要
出入口


出入口は2ヶ所。
入場無料で、出入りも自由です。
石碑


なお、近所の大久保利通生い立ちの地にも、まったく同じ大きさの石碑が建てられています。
明治維新の立役者である2人は、幼馴染でした。
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西郷従道誕生之碑

よく見ると、もう1つ小さな石碑がある!

天保14年(1843年)、西郷従道は西郷家の三男として、同じく加治屋町で生まれました。
明治10年(1877年)の西南戦争では立場上、兄と敵味方に分かれました。
石板


石碑と同じく、明治22年(1889年)に建てられました。
石板の裏には、誕生地整備の発起人だった弟の従道や、陸軍大将・大山巌の名前が刻まれています。
こちらも石碑同様、大久保利通生い立ちの地に建っています。
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西郷従道邸庭園跡庭石


平成12年(2000年)12月、目黒区から鹿児島市に寄贈されました。
明治7年(1874年)、従道は東京目黒に別邸を購入しました。
明治6年(1873年)の征韓論に敗れて下野した西郷が、再出仕すれば一緒に住むつもりでした。
しかし、その願いは叶いませんでした。
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参考HP
蓬莱竹の生垣


そのため西郷の生家にも、かつて蓬莱竹の生垣があったと考えられています。
西郷隆盛誕生地の逸話
幼少時代

体が少し弱かったため、満佐は鰹節を煮出して、絶えず与えていました。

その後は大きく育ち、藩校の造士館に通って勉学に励み、郷中教育で野太刀自顕流(薬丸自顕流)を学びました。
右腕の負傷


帰りが遅いのを心配し、夕闇に立っていた母・満佐の姿を見て、西郷は泣きました。
明治10年(1877年)の西南戦争後の検死では、この右腕の傷が、首のない遺体が西郷であるという証拠の1つになりました。
貧しい生活

しかし、吉兵衛の年俸は47石(約282万円)しかなく、生活は貧しいものでした。

西郷家の家格は、城下士として下から2番目の御小姓与(ごしょうよ)でした。
食事は、薩摩芋か麦飯。
冬の夜は1枚の掛布団を引っ張り合い、寒さをしのぎました。
また西郷は、竹傘の骨削りの内職や畑の開墾で、家計を助けました。
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二才頭就任

そして、同じ下加治屋町に住んでいた大山などの稚児達に、習字や読書などを生家で教えました。

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血染めの肌着

赤山から目を掛けられていた西郷は、父・吉兵衛から受け取った血染めの肌着を抱き、夜通し泣き明かしました。

後年、側に仕えた島津斉彬が病気になった際、お由羅の呪詛を信じた西郷は、暗殺計画まで立てました。
大久保利通を招く

父・次右衛門は、喜界島に流されました。
しかし、西郷は大久保をよく家に招き、食事を与えました。

そして2年後、人生の大きな転機がやってきます。
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結婚と死別

しかし同年、祖父、父、母の3人を病気で亡くしました。

これにより、薬代、葬式代、墓代が重なりました。
そのため、ますます家計が苦しくなりました。
西郷出府後

出府後の西郷家は、次男・吉二郎と、嫁に出ていた長女・琴が支えました。

離婚


生活は苦しく、夫もおらず、6人の面倒を見なければならなかった須賀。
その窮状を見かね、父親の伊集院兼善が実家に呼び戻しました。
そして、江戸の西郷は伊集院家と話し合いを重ね、安政元年(1854年)、正式に離婚しました。
生家売却

生家から少し離れた上之園町の借家が、西郷家の新たな棲家となりました。

辛かったろうね。
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西郷隆盛誕生地のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市加治屋町5 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で5分 | |
鹿児島中央駅から徒歩10分 | |
まち巡りバス 維新ふるさと館前から徒歩1分 |
|
カゴシマシティビュー 維新ふるさと館前から徒歩3分 |
西郷隆盛誕生地の地図
西郷隆盛誕生地の総評

ここを訪れた時、
「そういえばこんな話があったな」
と、スマホで読んで下さいまし。

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