鹿児島中央駅エリア

篠原国幹誕生地

篠原国幹誕生地

篠原国幹誕生地

 

篠原国幹って、だーれ?

 

優れた軍人で、西郷隆盛が信頼していた人物の1人です。

 

 

篠原国幹誕生地は、鹿児島市加治屋町にあります。

 

この記事では、篠原の人生を簡単に紹介します。

 

 

篠原国幹の人生

誕生

造士館・演武館跡

造士館・演武館跡

 

天保7年(1836年)、篠原は加治屋町で生まれました。

幼少期より造士館で学び、野太刀自顕流2代目・薬丸兼義に習うなど、文武両道に励みました。

 

なるほどねー。

 

 

 

 

寺田屋事件・薩英戦争

 

文久2年(1862年)、有馬新七らと反幕挙兵計画を立てるも、国父・島津久光の命を受けた鎮撫使に投降します(寺田屋事件)。

翌年の文久3年(1863年)、薩英戦争前に謹慎を解かれ、沖小島砲台の守備に就きました。

 

この頃は、血気盛んだったのかもね。

 

 

 

 

戊辰戦争・上野戦争

 

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、城下三番隊長として転戦。

上野戦争での黒門口攻めで、その勇猛さから世に知られ、賞典禄8石を与えられました。

 

相当腕があったんだろうね~。

 

 

陸軍少将

 

明治4年(1871年)、篠原は西郷に従って御親兵として上京し、陸軍少将に昇進します。

明治6年(1873年)の日本陸軍初演習で指揮を執り、感心した明治天皇が

「篠原に習え」

と褒めたことから、演習地が習志野と名付けられました

 

そうなんだー!

 

 

私学校監督

私学校跡

私学校跡

 

しかし明治6年(1873年)、西郷が政変に敗れて下野すると、篠原も帰郷。

翌年の明治7年(1874年)、西郷が創設した私学校で、銃隊学校の監督に就きました。

 

2人の信頼関係が伺えるね。

 

 

関連記事

 

 

西南戦争・戦死

篠原国幹の墓

篠原国幹の墓

 

ところが明治10年(1877年)、私学校生徒が暴発して、西南戦争が起きます。

篠原は、一番大隊長として部下2,000人を率いるも、熊本・吉次峠の戦いで戦死。

墓は、鹿児島市の南洲墓地にあります。

 

西南戦争では、多くの人が亡くなったんだよね。

篠原も、そのうちの1人だったんだ......。

 

 

 

 

篠原国幹誕生地のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市加治屋町10
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で5分
鹿児島中央駅から徒歩10分
まち巡りバス
維新ふるさと館前から徒歩3分
カゴシマシティビュー
維新ふるさと館前から徒歩5分

 

 

篠原国幹誕生地の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

篠原国幹誕生地の総評

 

仮に明治政府に留まっていたら、軍人として相当出世したかもね。

 

近衛司令長官も務めるほど、優秀な人物でした。

もっとスポットがあたっても良いと思います。

 

 

この記事の参考文献はこちら

 

 

 

 

篠原国幹誕生地の関連記事

 

 

 

 

 

 

 

 

-鹿児島中央駅エリア
-島津久光, 明治天皇, 有馬新七, 篠原国幹, 薬丸兼義, 西郷隆盛