28代・島津斉彬が興した集成館事業の一環として、安政4年(1857年)に建てられました。
反射炉跡は、鹿児島市吉野町の仙巌園内にあります。
この記事では、反射炉跡の概要や歴史を紹介します。
反射炉跡の概要
基礎部分
反射炉では、数万個の耐火レンガが使用されました。
そのため、過大な重量に耐えられるよう、城郭の石垣と同じ工法で基礎部分が組まれました。
石垣
カミソリ1枚も通さないほど、キッチリしています。
石垣に使用されたのは、凝灰岩。
大昔の桜島の大爆発で、生まれた石です。
水が染み込みにくく、頑丈なのが特徴です。
炉床
この上に、高さ15~20mの煙突がそびえていました。
傾斜させた石組みの上に、燃焼室がありました。
そして、寺山で造られた白炭を燃やし、鉄を溶かしました。
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こちらの通気口は、燃焼室の溝と内部で繋がっています。
湿気を外に逃がすための工夫です。
現在の反射炉跡は、実は2号炉の遺構です。
1号炉は湿気がこもり、鉄を溶かす温度まで上がりませんでした。
そのため、耐火レンガがボロボロと崩れ落ち、失敗に終わります。
そのため2号炉は、1号炉の失敗を踏まえて建造されました。
耐火レンガ
何か埋まっているのが見えませんか?
これは、何?
1号炉の耐火レンガは、品質が悪いものでした。
そのため、2号炉の耐火レンガは上質な天草の土を使い、薩摩焼の陶工が造りました。
また、反射炉内部で耐火レンガをアーチ状に組むため、石橋の技術者も建造に関わりました。
仙巌園隣の尚古集成館に、当時の耐火レンガが展示されています。
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反射炉跡碑
反射炉建造に携わった人々の名が、裏に刻まれています。
もっとも著名な人物が、明治政府で外務卿となった寺島宗則。
その他、元治元年(1864年)の禁門の変で活躍した中原猶介も、反射炉建造に携わりました。
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反射炉跡の歴史
建造
情報をいち早く入手した斉彬は藩主就任後、海防強化のため、大型鉄製大砲の製造に着手します。
そのために、反射炉が必要でした。
当時主流の青銅製大砲は高価で、領内にくまなく配備しようとすれば、莫大な資金が必要でした。
また、青銅製の大型大砲を造ること自体が、当時の鋳造技術では不可能でした。
そこで大型大砲を製造可能で、かつ安価であった鉄で鋳造するため、反射炉が建造されたのです。
焼失・世界遺産登録
しかし、安政5年(1858年)の斉彬の急死で、集成館事業が縮小されます。
反射炉も、その余波を受けました。
そして、文久3年(1863年)の薩英戦争で、焼失してしまいます。
時は下り平成27年(2015年)、明治日本の産業革命遺産として、基礎部分が世界遺産に登録されました。
反射炉跡のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 午前8時30分~午後5時30分 |
休園日 | 年中無休 |
場所 | 鹿児島市吉野町9700-1 |
料金 | 大人・高校生以上1,000円 尚古集成館と共通 |
小中学生500円 尚古集成館と共通 |
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駐車場 | 1日300円 |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で20分 | |
まち巡りバス 仙巌園前から下車すぐ |
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カゴシマシティビュー 仙巌園前から下車すぐ |
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電話 | 099-247-1551 |
HP | 仙巌園 |
反射炉跡の地図
反射炉跡の総評
料金も1人300円と、お得です。
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監修:仙巌園