江戸時代初期に建造されました。
鶴丸城は、鹿児島市城山町にあります。
この記事では、城の概要と歴史を紹介します。
鶴丸城の概要
石垣
慶長7年(1602年)に築城された当時の姿が、今も残っています。
そして写真をご覧の通り、鶴丸城には天守閣がありません。
『城をもって守りと成さず、人をもって城と成す』
との思想により、城内には屋形が並んでいました。
何か気付きませんか?
角が欠けてる!
北東は鬼門とも呼ばれ、不吉な方角と当時は認識されていました。
そのため魔除けとして、角を欠いた形で石組みされました。
御楼門
この御楼門をくぐって行きます。
旧来の御楼門は、明治6年(1873年)の火災で消失しました。
しかし、147年後の令和2年(2020年)に復元され、現在に至ります。
天璋院篤姫像
平成20年(2008年)、大河ドラマ・篤姫が放送され、大河ドラマ館に約66万人が訪れました。
平成22年(2010年)、その収益を基に、篤姫が約2ヶ月過ごした鶴丸城に建立されました。
鹿児島県歴史・美術センター黎明館
黎明館では企画展の作品や、常設展示で鹿児島の歴史史料が陳列されています。
戦国島津や幕末・明治が好きな方に、特におすすめです。
関連サイトをチェック
二ノ丸
現在、鹿児島県立図書館が大部分を占めています。
二ノ丸には、藩主の跡継ぎや隠居した前藩主の住まいなどがありました。
国父・島津久光も居住していましたが、明治10年(1877年)の西南戦争で焼失しました。
関連記事
鶴丸城の歴史
築城
父・島津義弘は、海岸線に近いため危険と反対し、多賀山への築城を薦めます。
しかし、家久は造営を強行しました。
集成館事業の実験場
そして、ある事に着手しました。
斉彬は、製煉所を城内に設置。
- 陶磁器の釉薬
- 反射炉
- ガラス
- 電信
- 写真
これらの製造・実験を、家臣に命じました。
いわゆる集成館事業の基礎研究が行われ、海防強化のための大砲造りや、殖産興業の礎となりました。
関連記事
鎮西鎮台第2分営設置と本丸焼失
29代・島津忠義は、本丸を退去。
その後、鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)第2分営が置かれました。
明治5年(1872年)、分営長に旧薩摩藩士の樺山資紀が就任しました。
しかし明治6年(1873年)、第2分営が全焼し、本丸にあった江戸時代の屋敷すべてが失われました。
二ノ丸焼失
やがて戦争が激しくなると、久光は桜島に避難しました。
やがて鶴丸城周辺も戦闘区域となり、二ノ丸屋敷は焼失。
約270年間続いた、島津家居城としての役割を終えました。
鶴丸城の駐車場・アクセス・料金
営業時間 | 本丸 午前9時~午後6時 |
二ノ丸 午前9時~午後9時 |
|
休園日 | 本丸・二ノ丸 年中無休 |
黎明館・県立図書館 各HPを参照 |
|
場所 | 鹿児島市城山町7-2 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 無料(黎明館・県立図書館利用者に限る) |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス 薩摩義士碑前から下車すぐ |
|
カゴシマシティビュー 薩摩義士碑前から下車すぐ |
鶴丸城の地図
鶴丸城の総評
雨の日も、いいですね。
チェック