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川村純義誕生地

川村純義誕生地

川村純義誕生地

 

川村純義(すみよし)って、だーれ?

 

明治5年(1872年)に、日本海軍を創設した人物です。

明治10年(1877年)の西南戦争では、西郷軍と戦いました。

 

 

川村純義誕生地は、鹿児島市荒田一丁目にあります。

 

この記事では、川村の人生を簡単に紹介します。

 

 

川村純義の人生

誕生

 

天保7年(1836年)、川村は、現在の荒田1丁目に生まれます。

当時は、高麗方限(こうらいほうぎり)と呼ばれ、大久保利通も、この地域で生まれました。

 

そうなんだ~。

 

 

戊辰戦争

 

慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では、薩摩藩四番隊長として出陣します。

会津戦争における十六橋の戦いでは、敵による橋の爆破を阻止。

官軍を、会津若松城に導きました。

 

勇敢な人だったんだね。

 

 

日本海軍創設

 

時代が明治に変わると、薩摩藩の大隊隊長を経て、軍人として政府に出仕します。

明治5年(1872年)には、近代日本海軍を創設。

海軍省発足に伴い、海軍少輔となりました。

 

順調に出世していったんだね。

 

 

西南戦争

 

ところが明治10年(1877年)1月、鹿児島の私学校生徒が暴発し、政府所有の火薬庫を襲撃します。

川村は、鹿児島に赴いて西郷隆盛と会談し、出兵上京を回避させようとしました。

しかし西郷は、私学校幹部に会談を反対され、川村はやむなく鹿児島を去りました。

 

もし実現していたら、歴史は変わったかもね。

 

 

南洲墓地

南洲墓地

 

同年9月、九州を敗走した西郷軍は、鹿児島に戻ってきます。

そして、同軍の河野主一郎と山野田一輔が、西郷に真の任務を明かさず、川村との面会に赴きました。

西郷助命を、直接訴えるためです。

 

それで、どうなったの?

 

 

「助命は天皇大権のため、まずは軍門に下るように」

 

と、川村は2人に諭します。

 

これに対して西郷は、返答をしませんでした。

 

翌日、政府軍は総攻撃を開始。

 

旧浄光明寺境内(現在の南洲墓地)で、川村は西郷の遺体を検死しました。

 

 

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昭和天皇御養育・死去

 

時代は下り、明治34年(1901年)、昭和天皇がお生まれになります。

同年、川村は皇太子養育係に任じられ、自宅で御養育しました。

 

責任重大!

 

 

しかし、3年目の明治37年(1904年)、川村は病気で亡くなります。

 

生前の功績により、死後、海軍大臣に昇格しました。

 

 

川村純義誕生地のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市荒田1丁目1
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で35分
鹿児島中央駅から車で3分
鹿児島中央駅から徒歩10分
まち巡りバス
鹿児島中央駅前から徒歩10分
カゴシマシティビュー
鹿児島中央駅前から徒歩10分

 

 

川村純義誕生地の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

川村純義誕生地の総評

 

川村の知名度は、決して高くありません。

そのため、結構アッサリとしたスポットです。

 

西郷さんとの関わりについて、もっと知られていいかもね。

 

 

ちなみに明治31年(1898年)、上野で西郷像除幕式が行われた際、川村はスピーチを行っています。

 

挙兵が西郷の本意でなかったことを、川村は充分把握していました。

 

 

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