「大久保利通に次ぐ傑物」
と、言われたほどの人物でした。
村田新八誕生地は、鹿児島市の加治屋町にあります。
この記事では、誕生地の概要と新八の人生を、簡単に紹介します。
村田新八誕生地の概要
石碑
実は、新八の誕生地は4説あります。
そのため、石碑のある加治屋町で生まれたかどうか、現時点で否定も断定もできない状態です。
村田家旧宅跡
その村田家の住宅は、石碑と同じ番地の現・鹿児島中央高校グラウンドにありました。
上記写真の中心に、赤い消火栓の標識が写っていますよね?
村田家旧宅は、この付近にあったと考えられています
村田新八の人生
精忠組結成
精忠組とは、西郷を首領とした下級藩士の若手グループです。
薩摩藩の国父・島津久光は、精忠組を取り込んで藩政に参加させました。
そのため、新八も国事奔走することになりました。
流島
幕政改革のための率兵上京を控えた久光からは、下関で待機するよう命じられていました。
しかし、尊王志士による反幕の挙兵計画を聞いた2人は、これを抑えるため、下関で合流した森山新蔵と上京。
この行動が無断上京として久光の怒りを買い、新八は捕縛されて喜界島に流されました。
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龍馬裏書を届ける
その中で最も重要な任務の1つだったのが、龍馬裏書を木戸孝允に届けたことでしょう。
慶応2年(1866年)、長州の木戸と薩摩の小松帯刀など両藩首脳部は、坂本龍馬立ち会いのもとに薩長同盟を締結。
しかし口約束の同盟だったため、木戸が明文化し、内容に相違がないか龍馬に手紙を送りました。
龍馬は手紙裏に朱墨で
『相違なし』
と書き、新八と川村純義が改めて木戸に届けました。
岩倉使節団として渡米
この派遣団は、通称・岩倉使節団として知られています。
新八も参加してたんだね~。
私学校で監督指導
そして、明治7年(1874年)に設立された私学校で、砲術学校の監督に就きました。
新八は一時期、薩摩藩の砲術家・中原猶介の家に通い、川村や辺見十郎太と砲術を学びました。
また桐野利秋と共に、信濃上田藩士・赤松小三郎から、イギリス式兵学を教わったこともありました。
西南戦争で戦死
新八は二番大隊長として戦果を挙げましたが、次第に追い詰められました。
そして同年9月24日、鹿児島の城山で戦死。
享年42才でした。
墓は鹿児島市上竜尾町の南洲墓地や、同市草牟田1丁目の草牟田墓地にもあります。
大正5年(1916年)、従五位を追贈され、新八の名誉は回復しました。
村田新八誕生地のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市加治屋町10 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で5分 | |
鹿児島中央駅から徒歩10分 | |
まち巡りバス 維新ふるさと館前から徒歩1分 |
|
カゴシマシティビュー 維新ふるさと館前から徒歩3分 |
村田新八誕生地の地図
村田新八誕生地の総評
予備知識なしであれば、5分以内で立ち去るスポットと言えます。
なので、この記事で予習して現地でも読んで下さいまし。
新八好きなら、寄ってみて下さいな。
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