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天保山砲台跡

天保山砲台跡

天保山砲台跡

 

天保山砲台跡って、実際に戦闘で使われたの?

 

はい。

有名な薩英戦争は、天保山砲台からの砲撃で始まったんですよ。

 

 

天保山砲台跡は、鹿児島市天保山町にあります。

 

この記事では、天保山砲台跡の概要や、歴史を紹介します。

 

 

天保山砲台跡の概要

出入口

出入口

出入口

 

砲台跡は、天保山公園の中にあります。

まずは、公園出入口から歩いて行きましょう。

 

はーい。

 

 

松林

松林

松林

 

出入口から海のある東側に歩いて行くと、松林が見えてきます。

この中に、砲台跡があります。

 

出入口から、1分の距離だっだね。

 

 

標識

標識

 

松林の中に、砲台跡の大きな標識が立っています。

この標識の左奥に、もう1つ標識が見えますよね?

あそこまで、行ってみましょう。

 

いよいよだね~。

 

 

砲座

砲座

砲座

 

標識の下に、円状に組まれた複数の石が並んでいます。

こちらは、砲座です。

 

へーっ、初めて見る石組み!

 

 

砲座

砲座

 

天保山砲台跡には、砲座が2つあります。

松林を散策すると、もう1つの砲座を見つける事が出来ますよ。

 

あっ、あった!

ウロウロするのは大事だね(笑)

 

 

この円状の砲座は、当時最新のキスト砲架のために設置されました。

 

しかし薩英戦争絵巻の天保山砲台に、キスト砲架や円状の砲座は描かれていません。

 

そのため、これらの砲座は戦後に整備されたものと考えられます。

 

 

胸墻石垣

胸墻石垣

胸墻石垣

 

こちらは、胸墻(きょうじゅん)石垣と呼ばれるもの。

敵艦からの砲弾を防ぎ、味方の砲射を援護するために築かれました。

 

なるほど~。

この石垣に隠れて、イギリスの砲弾から身を守ったかもね。

 

 

天保山砲台跡の歴史 

埋め立て

 

この地はもともと、すぐ横を流れる甲突川の河口でした。

そして幕末時の河口は、度重なる洪水によって土砂で覆われ、スムーズに流れない状態でした。

 

つまり、河口に溜まった土砂のせいで、さらに洪水が起きやすくなる悪循環に陥ってたんだね。

 

 

そこで家老の調所広郷は、河口の土砂を取り除き、なおかつ幅を広げる事業に着手します。

 

取り除いた土砂の置き場が、やがて大きな埋立地になり、天保年間に完成。

 

そのため、この地が天保山と呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

砲台設置

 

嘉永3年(1850年)、藩主・島津斉興は、この天保山に砲台を設置し、大砲を置きます。

これが天保山砲台の始まりです。

 

なるほど。

でも、どうして砲台を?

 

 

実は当時、薩摩藩の占領下だった琉球に、イギリス・フランス艦隊が何度も来航し、開国を求めていました。

 

これら海外の脅威に対抗するため、天保山ほか複数の場所に砲台を設置したのです。

 

 

薩英戦争

 

文久3年(1863年)、横浜で起きた生麦事件の賠償を求め、イギリス艦隊が鹿児島湾に来航します。

しかし、薩摩側は要求を拒否。

話し合いは、平行線を辿りました。

 

薩摩側も言い分があるだろうから、そう簡単には飲めないよね。

 

 

そこでイギリス側は、交渉を有利に進めるために、薩摩藩の汽船3隻を拿捕。

 

薩摩藩は、これを宣戦布告と捉えます。

 

各砲台に砲撃の命を下し、天保山砲台からの発射を以って、薩英戦争が始まりました。

 

 

 

 

天保山砲台跡のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市天保山町14-15
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で10分
共月亭前バス停から徒歩3分

 

 

天保山砲台跡の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

天保山砲台跡の総評

 

ちなみに薩英戦争により、天保山砲台も大砲も、ほぼ破壊されました。

 

やっぱり、当時のイギリス艦隊の威力は凄かったんだね。

 

 

この後、薩摩藩はイギリスと和解し、友好関係を結びます。

 

藩内に攘夷の風は止み、開国を是とする考えが広まりました。

 

 

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