藩内志士のほとんどが、この野太刀自顕流を学んでいたんですよ。
薬丸兼義の墓は、鹿児島市南林寺町の南林寺由緒墓にあります。
この記事では、兼義の人生を簡単に紹介します。
薬丸兼義の人生
誕生
祖先・薬丸兼陳は、同家に代々受け継がれてきた野太刀流を修めたほか、示現流の始祖・東郷重位の門弟にもなりました。
これを機に、薬丸家では双方の流派を修める時代が続いていました。
関連記事
そして、野太刀流を野太刀自顕流に改名。
ついに、示現流と決別しました。
しかしこの時、示現流から門弟が移るなど、大きな問題が発生します。
示現流は、島津家の御流儀でした。
そのため兼武は島津家の怒りを買い、屋久島に流されます。
本土には戻れず、そのまま生涯を終えました。
師範家に
その威力から、やがて下級武士を中心に、藩内に拡大。
ついに兼義は、藩から師範家のお墨付きを得ました。
兼義の弟子達は、明治維新や新政府で大いに活躍しました。
下記表は、その人物一覧です。
東郷平八郎 | 連合艦隊司令長官・元帥海軍大将 |
西郷従道 | 海軍大臣・元帥海軍大将 |
野津道貫 | 元帥陸軍大将 |
高島鞆之助 | 陸軍大臣 |
伊地知正治 | 薩摩藩軍奉行・東山道先鋒総督府参謀 |
赤塚源六 | 軍艦春日艦長・海軍大佐 |
大山綱良 | 寺田屋騒動鎮撫使・鹿児島県令 |
有村俊斎(海江田信義) | 貴族議員・枢密院審議官 |
有村次左衛門 | 桜田門外の変で井伊直弼を暗殺 |
篠原国幹 | 近衛司令長官・西郷軍一番大隊長 |
率兵上京
この上京には、多くの弟子も加わっていました。
この行列一行に薩摩藩士・有馬新七も加わっており、上方での反幕挙兵を計画していました。
有馬は神陰流でしたが、同志の中に兼義の弟子も含まれていました。
寺田屋騒動
逃亡を防げなかった責任を感じ、弟子の永田佐一郎が切腹。
兼義は、これ以上の逃亡者が出ないように警戒を続けました。
その後、寺田屋事件の一報を聞き、兼義は京の伏見に駆け付けます。
到着した時、寺田屋の壁四方は赤く染まり、血肉の臭いが充満していました。
これにより、弟子2名が闘死または切腹。
兼義は、大いに悲しみました。
死去
そして明治11年(1878年)、74才で死去。
当時としては、異例の長寿でした。
薬丸兼義の墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市南林寺町23-22 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 無料 |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス 天文館から徒歩10分 |
|
カゴシマシティビュー 天文館から徒歩10分 |
|
電話 | 南洲寺 099-222-5655 |
薬丸兼義の墓の地図
薬丸兼義の墓の総評
しかし兼義の墓は、戒名ではなく本名が彫られているため、比較的見付けやすいです。
チェック
薬丸兼義の墓の関連記事