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赤塚源六の墓

赤塚源六の墓

赤塚源六の墓

 

赤塚源六さんは、どういうお方だったのですか?

 

軍艦春日の艦長を務め、函館戦争を勝利に導きました。

 

 

赤塚源六の墓は、鹿児島市南林寺町の南林寺由緒墓にあります。

 

この記事では、赤塚の人生を簡単に紹介します。

 

 

赤塚源六の人生

誕生

薬丸兼義の墓

薬丸兼義の墓

 

天保5年(1834年)、赤塚は薩摩藩士・源蔵の子として生まれました。

しかし源蔵の死により、生活は困窮。

一旦養子に出されるも、兄の死後、実家に戻って家督を継ぎました。

 

苦労されたのですね。

 

 

赤塚は、下級武士間で普及していた野太刀自顕流の師範、薬丸兼義に入門。

 

文久2年(1862年)、島津久光の率兵上京に際しては、兼義の下に付いてお供しました。

 

 

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海軍畑へ

 

久光は京から江戸へ下り、文久の改革を実現。

しかし帰路の途中、イギリス人を殺傷した生麦事件が発生します。

翌文久3年(1863年)、薩英戦争が勃発しました。

 

生麦事件から薩英戦争が起きたのは、有名ですよね。

 

 

イギリス艦隊の威力を目の当たりにした赤塚は、戦後に海軍畑へ。

 

船奉行見習、海軍陸戦隊、軍艦掛を歴任しました。

 

 

 

 

阿波沖海戦

 

慶応4年(1868年)1月3日、戊辰戦争が始まった日に、赤塚は軍艦春日の艦長に就任。

翌4日の阿波沖で、幕府軍艦の開陽と交戦しました。

 

船同士の戦いだったのですね。

 

 

当時のヨーロッパで1、2を争う強力艦だった開陽は、26門の大砲を備えていました。

 

対する春日は、わずか8門。

 

しかし春日は、16ノット(約30km)を出せる高速船でした。

 

そのため開陽を翻弄。

 

日本初の蒸気船同士による戦いは、両艦軽微な傷で済み、痛み分けで終わりました。

 

 

宮古湾海戦

 

上海での修理を終えた軍艦春日は、明治2年(1869年)、旧幕府軍が籠もる函館への出征を命じられました。

途中、春日を含む政府艦隊は、宮古湾に入港。

この時、旧幕府軍艦の回天が、旗艦・甲鉄の奪取を試みます。

春日は回天に砲撃を加え、撤退に追い込みました。

 

この時の艦長も、赤塚さんだったのですね。

 

 

箱館湾海戦

 

函館湾に着いた政府艦隊は、旧幕府海軍と交戦しました。

春日は、座礁した旧幕府軍艦・千代田形を奪取。

続けて、回天・蟠龍を追い詰め、座礁に追い込みます。

こうして、旧幕府海軍は壊滅。

後日、函館城が開城して戊辰戦争が終結しました。

 

赤塚さんと軍艦春日は、大活躍したのですね。

 

 

賞典禄下賜

 

戊辰戦争が終わった明治2年(1869年)、金1,000両の賞典禄が赤塚に与えられました。

また、艦長を務めた軍艦春日にも、3,300石が3年間下賜されます。

人ではなく軍艦に与えられたのは、異例でした。

 

春日にも!

抜群の働きだったのでしょうね。

 

 

死去

赤塚源六の墓

赤塚源六の墓

 

明治政府でも、赤塚は海軍畑を歩みました。

海軍少佐、海軍中佐、海軍大佐と、順調に出世。

しかし、肺結核に掛かって依願退職します。

翌明治6年(1873年)、40才で逝去。

このお墓には遺髪が納められ、友人の伊地知正治が墓誌を書きました。

 

惜しい人を亡くしましたね。

 

 

 

 

赤塚源六の墓のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市南林寺町23-22
料金 無料
駐車場 無料
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で10分
まち巡りバス
天文館から徒歩10分
カゴシマシティビュー
天文館から徒歩10分
電話 南洲寺
099-222-5655

 

 

赤塚源六の墓の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

赤塚源六の墓の総評

 

赤塚の部下に、日露戦争でバルチック艦隊を破った、若き東郷平八郎がいました。

赤塚が長命であれば、相応の地位に就いたでしょうね。

 

もっと光があてられてもいい人物ですね。

 

 

この記事の参考文献はこちら

 

 

 

 

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