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迫田利済の墓

迫田利済の墓

迫田利済の墓

 

迫田利済(さこだとしなり)さんって、どういうお人だったのですか?

 

あの西郷隆盛の初めて上司で、非常に気骨のある武士でした。

 

 

迫田利済のお墓は、鹿児島市南林寺町の南林寺由緒墓にあります。

 

この記事では、迫田と西郷の交わりを紹介します。

 

 

迫田利済と西郷隆盛の交わり

出会い

 

弘化元年(1844年)、59才の迫田のもとに、18才の西郷が部下として配属されます。

 

40才以上も離れていたんですね!

 

 

迫田は農民の事を第一に考える豪傑で、各地で不正を働いた村役人を罰するなど、当時の薩摩では珍しい侍でした。

 

のちの西郷の農業や農民に対する考え方は、迫田の影響によるものと言っても、過言ではありません。

 

 

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西郷の役職

 

郡奉行の迫田のもとで、西郷は郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)として働きました。

 

郡方書役助?

 

 

『郡方』とは、農村を巡回して調査を行い、年貢などの監督をする役所のこと。

 

『書役』は、文章の素案作り、記録、書写を担当する役職を指します。

 

一番最後の『助』は、臨時職や見習いを意味し、貧しい下級武士のために藩が設けました。

 

 

押し入れで語り合う

 

武士の多い薩摩藩の農民は貧しく、その姿を仕事を通して見ていた迫田自身も、貧しい生活を送っていました。

 

たとえば、どのような?

 

 

迫田の貧しさは、家に現れていました。

 

壁は落ち、ひさしはやぶれ、雨漏りのする家に住んでいました。

 

ある雨の日、西郷が訪れた時には雨漏りがひどく、押し入れの中で語り合ったほどです。

 

 

迫田の辞職

 

嘉永2年(1849年)は、天候不順などで凶作でした。

しかし藩庁は、年貢の取立てを例年通りに行うよう厳達します。

 

それで迫田さんは、どうなされたの?

 

 

「虫よ虫よ 五ふし草の根を断つな 絶たば己も共に枯れなん」

 

と、奉行所の壁に書いて辞職しました。

 

虫は藩庁、五ふし草は農民を指します。

 

 

島津斉彬による西郷抜擢の礎

 

そして、西郷も一緒に辞める決意をします。

 

では、西郷さんも役職を辞めたのですか?

 

 

迫田は西郷に、

 

「出世して藩を改革し、民百姓の暮らしを良くせよ」

 

と、職に留まるよう諭します。

 

西郷は辞職を思い留め、のちに農政改革の意見書を藩に多数提出。

 

それらが、藩主・島津斉彬の目に留まり、後に庭方役に抜擢されることになりました。

 

 

迫田利済の墓のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市南林寺町23-22
料金 無料
駐車場 無料
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で10分
まち巡りバス
天文館から徒歩10分
カゴシマシティビュー
天文館から徒歩10分
電話 南洲寺
099-222-5655

 

 

迫田利済の墓の地図

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迫田利済の墓の総評

 

安政2年(1855年)、迫田は70才で亡くなります。

お墓の前面に彫られた戒名は、風松堂清山涼心居士。

南林寺由緒墓に被葬者の解説板は設置されていないので、戒名を手掛かりにお訪ね下さい。

 

農民の事を第一に考えたお侍さんって、素敵ですね。

 

 

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