調所広郷銅像は、鹿児島市天保山町にあります。
この記事では、調所の人生を簡単に紹介します。
調所広郷の人生
誕生・養子入り
調所の幼名は、良八。
幼い頃の生活は貧しく、天明8年(1788年)に茶坊主・調所清悦の養子になりました。
島津重豪付奥茶道
寛政2年(1790年)に茶坊主となり、剃髪しました。
ただし出家ではなかったため、妻をめとって子をもうけました。
寛政10年(1798年)、調所は島津重豪付奥茶道になります。
この頃の薩摩藩の借金は、重豪による文化政策などで膨張。
文化4年(1807年)には、126万両に達しました。
財政改革主任
文政11年(1828年)、調所は藩の財政改革主任に抜擢されます。
当時の借金は、約500万両。
利払いだけで、年60万両にも達する額でした。
そのため調所は、大坂商人の出雲屋・平野屋などの協力を得て、改革資金を調達しました。
関連記事
黒砂糖専売制の強化
そこで同年、調所は奄美大島などで黒砂糖の専売制を強化。
10年間で、235万両を売り上げます。
その額は、薩摩藩が大坂に出荷する米の約40倍に達しました。
借金の無利子250年返済
「250年に渡って借金を無利子で返済する」
という、一方的な宣言でした。
借金の無利子250年返済により、商人達は町奉行に訴えます。
しかし調所は、幕府への10万両献上など事前対策を打っており、商人達の不満の押さえ込みに成功しました。
服毒自殺
この情報を幕府老中・阿部正弘が掴み、嘉永元年(1848年)、調所に問いただします。
天保4年(1833年)に重豪は亡くなっており、藩主の座を継いだ島津斉興は、調所に改革を続行させていました。
調所は斉興に責任が及ばぬよう、同年12月、江戸の芝藩邸で服毒自殺しました。
調所広郷銅像のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市天保山町18-5 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
共月亭前バス停から徒歩3分 |
調所広郷銅像の地図
調所広郷銅像の総評
関連記事
チェック
調所広郷銅像の関連記事