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調所広郷銅像

調所広郷銅像

調所広郷銅像

 

調所広郷って、だーれ?

 

借金漬けだった薩摩藩の財政を蘇らせた、同藩の家老です

 

 

調所広郷銅像は、鹿児島市天保山町にあります。

 

この記事では、調所の人生を簡単に紹介します。

 

 

調所広郷の人生

誕生・養子入り

調所広郷銅像

調所広郷銅像

 

安政5年(1776年)、調所は御小姓与・川崎主右衛門の次男として生まれました。

 

苗字が違うってことは、川崎家から調所家に養子入りしたのかな?

 

 

調所の幼名は、良八。

 

幼い頃の生活は貧しく、天明8年(1788年)に茶坊主・調所清悦の養子になりました。

 

 

島津重豪付奥茶道

 

養父が茶坊主ということは、調所も茶坊主になったの?

 

はい。

寛政2年(1790年)に茶坊主となり、剃髪しました。

ただし出家ではなかったため、妻をめとって子をもうけました。

 

 

寛政10年(1798年)、調所は島津重豪付奥茶道になります。

 

この頃の薩摩藩の借金は、重豪による文化政策などで膨張。

 

文化4年(1807年)には、126万両に達しました。

 

 

財政改革主任

琉球館跡

琉球館跡

 

文政7年(1824年)、調所は側用人格両隠居続料掛となり、琉球口貿易で着実な利益を生むなど、才覚を発揮させます。

 

利益を生む人物を、重豪が放っておくわけないよねー。

 

 

文政11年(1828年)、調所は藩の財政改革主任に抜擢されます。

 

当時の借金は、約500万両。

 

利払いだけで、年60万両にも達する額でした。

 

そのため調所は、大坂商人の出雲屋・平野屋などの協力を得て、改革資金を調達しました。

 

 

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黒砂糖専売制の強化

 

改革資金の調達成功に気を良くした重豪は、天保元年(1830年)、古い借金証文の取り返しと50万両の備蓄の蓄えを、新たに命じました。

 

この藩主は、まったく(笑)

 

 

そこで同年、調所は奄美大島などで黒砂糖の専売制を強化。

 

10年間で、235万両を売り上げます。

 

その額は、薩摩藩が大坂に出荷する米の約40倍に達しました。

 

 

借金の無利子250年返済

 

そして財政改革の真髄が、

「250年に渡って借金を無利子で返済する」

という、一方的な宣言でした。

 

あかんでしょ(笑)

 

 

借金の無利子250年返済により、商人達は町奉行に訴えます。

 

しかし調所は、幕府への10万両献上など事前対策を打っており、商人達の不満の押さえ込みに成功しました。

 

 

服毒自殺

調所広郷の墓

調所広郷の墓

 

調所による財政改革には、違法な密貿易も含まれていました。

この情報を幕府老中・阿部正弘が掴み、嘉永元年(1848年)、調所に問いただします。

 

ゴクリ。

 

 

天保4年(1833年)に重豪は亡くなっており、藩主の座を継いだ島津斉興は、調所に改革を続行させていました。

 

調所は斉興に責任が及ばぬよう、同年12月、江戸の芝藩邸で服毒自殺しました。

 

 

 

 

調所広郷銅像のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市天保山町18-5
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で10分
共月亭前バス停から徒歩3分

 

 

調所広郷銅像の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

調所広郷銅像の総評

 

最後に服毒自殺したってことは、ある意味気骨のある人物だったのかもね。

 

多くの問題もありましたが、この時に貯めた50万両が、集成館事業など幕末の薩摩にとって大いに役立ちました。

 

 

 

 

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