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迫田利済の墓

投稿日:2018年1月13日 更新日:

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迫田利済の墓

迫田利済の墓

迫田利済(さこだとしなり)さんって、どういうお人だったのですか?

 

西郷隆盛の初めて上司で、非常に気骨のある武士でした。

 

迫田利済のお墓は、鹿児島市南林寺町の南林寺由緒墓にあります。

 

この記事では、迫田と西郷の交わりについて紹介します。

 

迫田利済と西郷隆盛の交わり

出会い

西郷隆盛誕生地

西郷隆盛誕生地

弘化元年(1844年)、59才の迫田に、18才の西郷が部下として配属されます。

 

40才以上も離れていたんですね!

 

迫田は農民の事を第一に考える豪傑で、各地で不正を働いた村役人を罰するなど、当時の薩摩では珍しい侍でした。

 

のちの西郷隆盛の農業や農民に対する考え方は、迫田の影響によるものと言っても、過言ではありません。

 

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西郷の役職

郡奉行の迫田の下で、西郷は郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)として働きました。

 

郡方書役助?

 

郡方とは、農村を巡回して調査を行い、年貢などの監督をする役所のこと。

 

書役は、文章の素案作り、記録、書写を担当する役職を指します。

 

一番最後のは、臨時職や見習いを意味し、貧しい下級武士のために藩が設けました。

 

押し入れで語り合う

武士の多い薩摩藩の農民の生活は苦しく、その姿を仕事を通して見ていた迫田自身も、貧しい生活を送っていました。

 

たとえば、どのような?

 

迫田の貧しさは、家に現れていました

 

壁は落ち、ひさしはやぶれ、雨漏りのする家に住んでいました。

 

ある雨の日、西郷が訪れた時には雨漏りがひどく、押し入れの中で語り合いました。

 

迫田の辞職

嘉永2年(1849年)は、天候不順などで、凶作の年でした。

しかし藩庁は、年貢の取立ては例年通りに行うよう厳達します。

 

それで、迫田さんは、どうなされたの?

 

「虫よ虫よ 五ふし草の根を断つな 絶たば己も共に枯れなん」

と、奉行所の壁に書き、辞職しました。

 

虫は藩庁、五ふし草は農民を指します。

 

島津斉彬による西郷抜擢の礎

島津斉彬公像

島津斉彬公像

そして、西郷も一緒に辞める決意をします。

 

では、西郷さんも役職を辞めたのですか?

 

迫田は西郷に、

「出世して藩を改革し、民百姓の暮らしを良くせよ」

と、職に留まるよう諭します。

 

西郷は辞職を思い留め、のちに農政改革の意見書を藩に多数提出します。

 

それらが藩主・島津斉彬の目に留まり、後に庭方役に抜擢されることになりました。

 

迫田利済の墓の基本情報

【時】 自由
【所】 鹿児島市南林寺23
【料】 無料
【駐】 なし
【交】 鹿児島中央駅から車で10分
まち巡りバス 鹿児島中央駅から徒歩15分
カゴシマシティビュー 鹿児島中央駅から徒歩15分

 

迫田利済の墓の地図

Googleマップの大きな地図で見る

 

迫田利済の墓の総評

安政2年(1855年)9月21日、迫田は70才で亡くなります。

お墓の前面に彫られた戒名は、風松堂清山涼心居士。

南林寺由緒墓に解説板は設置されていないので、戒名を手掛かりにお訪ねください。

 

農民の事を第一に考えたお侍さんって、素敵ですね。

 

墓の前面部分が今にも剥がれ落ちそうですが、家の壁が崩れても意に介さなかった、迫田らしい墓といえます。

 

また、周辺には

 

 

などの観光スポットがあります。

 

こちらにも、是非どうぞ。

 

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