鹿児島中央駅エリア

西郷隆盛誕生地

西郷隆盛誕生地

西郷隆盛誕生地

 

西郷さんの生まれた場所に、行ってみたいなー。

 

鹿児島中央駅近くにあるので、簡単に行けますよ。

 

 

西郷隆盛誕生地は、鹿児島市加治屋町にあります。

 

この記事では、誕生地の概要や逸話を紹介します。

 

 

西郷隆盛誕生地の概要

出入口

出入口

出入口

 

ここが、西郷隆盛誕生地の出入口です。

 

わくわく。

 

 

出入口は2ヶ所。

 

入場無料で、出入りも自由です。

 

 

石碑

石碑

石碑

 

立派な石碑ーっ!

 

この石碑は、明治22年(1889年)に建立されました。

 

 

なお、近所の大久保利通生い立ちの地にも、まったく同じ大きさの石碑が建てられています。

 

明治維新の立役者である2人は、幼馴染でした。

 

 

 

 

西郷従道誕生之碑

西郷従道誕生之碑

西郷従道誕生之碑

 

ん?

よく見ると、もう1つ小さな石碑がある!

 

海軍大臣を務めた弟・従道も、この地で生まれました。

 

 

天保14年(1843年)、西郷従道は西郷家の三男として、同じく加治屋町で生まれました。

 

明治10年(1877年)の西南戦争では立場上、兄と敵味方に分かれました。

 

 

 

 

石板

石板

石板

西郷隆盛誕生地の石板の裏

石板の裏

 

隣にある石板は、なーに?

 

これは、誕生地整備の経緯が刻まれた石板です。

石碑と同じく、明治22年(1889年)に建てられました。

 

 

石板の裏には、誕生地整備の発起人だった弟の従道や、陸軍大将・大山巌の名前が刻まれています。

 

こちらも石碑同様、大久保利通生い立ちの地に建っています。

 

 

 

 

西郷従道邸庭園跡庭石

西郷従道邸庭園跡庭石

西郷従道邸庭園跡庭石

 

石板裏の大きな石は、なーに?

 

これは、東京目黒の西郷従道邸にあった庭石です。

平成12年(2000年)12月、目黒区から鹿児島市に寄贈されました。

 

 

明治7年(1874年)、従道は東京目黒に別邸を購入しました。

 

明治6年(1873年)の征韓論に敗れて下野した西郷が、再出仕すれば一緒に住むつもりでした。

 

しかし、その願いは叶いませんでした。

 

 

 

 

 

 

蓬莱竹の生垣

蓬莱竹の生垣

蓬莱竹の生垣

 

よく見ると、誕生地は小さな竹に囲まれているね。

 

第2次世界大戦まで、加治屋町には蓬莱竹の生垣で囲まれた武家屋敷が、沢山残っていました。

 

 

そのため西郷の生家にも、かつて蓬莱竹の生垣があったと考えられています。

 

 

西郷隆盛誕生地の逸話

幼少時代

造士館跡

造士館跡

 

文政10年(1827年)12月7日、西郷は吉兵衛と満佐の長男として、この地に生まれました。

体が少し弱かったため、満佐は鰹節を煮出して、絶えず与えていました。

 

体が弱かったとは、意外!

 

 

その後は大きく育ち、藩校の造士館に通って勉学に励み、郷中教育で野太刀自顕流(薬丸自顕流)を学びました。

 

 

 

 

右腕の負傷

西郷隆盛の墓

西郷隆盛の墓

 

しかし天保10年(1839年)の13歳の頃、雨の降る造士館からの帰り道で、西郷に恨みを持つ横堀三助に右腕を斬られ、神経を負傷します。

 

痛かったでしょうね......。

 

 

帰りが遅いのを心配し、夕闇に立っていた母・満佐の姿を見て、西郷は泣きました。

 

明治10年(1877年)の西南戦争後の検死では、この右腕の傷が、首のない遺体が西郷であるという証拠の1つになりました。

 

 

 

 

貧しい生活

西郷南洲野屋敷跡

西郷南洲野屋敷跡

 

西郷家には、最大で11人の家族がいました。

しかし、吉兵衛の年俸は47石(約282万円)しかなく、生活は貧しいものでした。

 

大変だあ......。

 

 

西郷家の家格は、城下士として下から2番目の御小姓与(ごしょうよ)でした。

 

食事は、薩摩芋か麦飯。

 

冬の夜は1枚の掛布団を引っ張り合い、寒さをしのぎました。

 

また西郷は、竹傘の骨削りの内職や畑の開墾で、家計を助けました。

 

 

 

 

二才頭就任

大山巌誕生地

大山巌誕生地

 

弘化2年(1845年)、西郷は19才で下加治屋町の二才頭となります。

そして、同じ下加治屋町に住んでいた大山などの稚児達に、習字や読書などを生家で教えました。

 

先輩が後輩に勉学を教える、郷中教育のことだね。

 

 

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血染めの肌着

お由羅屋敷

お由羅屋敷

 

しかし嘉永3年(1850年)の24才の時、お由羅騒動によって島津氏の分家筋であった赤山靱負が自刃。

赤山から目を掛けられていた西郷は、父・吉兵衛から受け取った血染めの肌着を抱き、夜通し泣き明かしました。

 

ツライ......。

 

 

後年、側に仕えた島津斉彬が病気になった際、お由羅の呪詛を信じた西郷は、暗殺計画まで立てました。

 

 

大久保利通を招く

大久保利通生い立ちの地

大久保利通生い立ちの地

 

また、お由羅騒動によって、親友の大久保も記録所書役助を免職。

父・次右衛門は、喜界島に流されました。

しかし、西郷は大久保をよく家に招き、食事を与えました。

 

優しいな~。

 

 

そして2年後、人生の大きな転機がやってきます。

 

 

 

 

結婚と死別

西郷家の墓

西郷家の墓

 

嘉永5年(1852年)の26才の時、親同士が決めて、伊集院須賀と結婚しました。

しかし同年、祖父、父、母の3人を病気で亡くしました。

 

Oh......。

 

 

これにより、薬代、葬式代、墓代が重なりました。

 

そのため、ますます家計が苦しくなりました。

 

 

 

 

西郷出府後

みっかんざか

みっかんざか

 

安政元年(1854年)、28才の西郷は、薩摩藩主・島津斉彬の参勤交代にお供し、鹿児島を発ちます。

出府後の西郷家は、次男・吉二郎と、嫁に出ていた長女・琴が支えました。

 

嫁に行った琴が支えたほどだから、暮らしは楽ではなかっただろうね。

 

 

 

 

離婚

 

だけど、残された奥さんが可愛そう......。

 

この時の須賀は、西郷の祖母に加えて、弟妹5人と同居していました。

 

 

生活は苦しく、夫もおらず、6人の面倒を見なければならなかった須賀。

 

その窮状を見かね、父親の伊集院兼善が実家に呼び戻しました。

 

そして、江戸の西郷は伊集院家と話し合いを重ね、安政元年(1854年)、正式に離婚しました。

 

 

生家売却

西郷南洲翁宅地跡

西郷南洲翁宅地跡

 

そして安政2年(1855年)、借金返済のため、下加治屋町の生家を売却。

生家から少し離れた上之園町の借家が、西郷家の新たな棲家となりました。

 

借金返済のために、生家を売ったのか~。

辛かったろうね。

 

 

 

 

西郷隆盛誕生地のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市加治屋町5
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で5分
鹿児島中央駅から徒歩10分
まち巡りバス
維新ふるさと館前から徒歩1分
カゴシマシティビュー
維新ふるさと館前から徒歩3分

 

 

西郷隆盛誕生地の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

西郷隆盛誕生地の総評

 

予備知識無しで行けば、滞在時間は10分未満で済みます。

ここを訪れた時、

「そういえばこんな話があったな」

と、スマホで読んで下さいまし。

 

事前に勉強していれば、訪れた時に感慨に浸れるはず!

 

 

この記事の参考文献はこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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