南部エリア

奈良原繁・喜左衛門の墓

奈良原繁・喜左衛門の墓

奈良原繁・喜左衛門の墓

 

奈良原繁と喜左衛門って、だーれ?

 

2人は兄弟で、ある幕末の歴史的事件に、深く関わりました。

 

 

奈良原繁・喜左衛門の墓は、鹿児島市郡元町の露重(つゆしげ)墓地にあります。

 

この記事では

  • 墓の概要
  • 両兄弟と歴史的事件との関わり

を、紹介します。

 

 

奈良原繁・喜左衛門の墓の概要

出入口

出入口

出入口

 

露重墓地は、鹿児島市を流れる新川沿いに位置しています。

まずは志學館大学の校舎が見える、小さな階段をお探し下さい。

 

案内板や標識は、ないんだね。

 

 

奈良原家の墓域

奈良原家の墓域

奈良原家の墓域

 

 階段を登ってすぐの場所に、奈良原家の墓域があります。

 

おお!

石灯籠もあって、立派!

 

 

奈良原繁の墓

奈良原繁の墓

奈良原繁の墓

 

中央の1番大きな石が、弟・繁の墓です。

大正7年(1918年)、鹿児島市で亡くなりました。

 

弟の墓が、1番大きいんだね。

 

 

奈良原喜左衛門の墓

奈良原喜左衛門の墓

奈良原喜左衛門の墓

 

繁の墓右斜め後方に、兄・喜左衛門の墓があります。

 慶応元年(1865年)、京の二本松藩邸で病死しました。

 

なるほど。

繁と比べて、随分早く亡くなったんだね。

 

 

奈良原繁と寺田屋事件

 

文久2年(1862年)、繁や大山綱良など9名の剣豪が、反幕挙兵を計画していた有馬新七らを鎮撫します。

世に言う、寺田屋騒動です。

 

寺田屋騒動って有名だよね。

それに繁が関わっていたんだね。

 

 

圧巻は、鎮撫後でした。

 

西郷従道や大山巌など過激派約30名のいる2階に、繁は駆け上がります。

 

そして大小の刀を捨て、もろ肌脱いで合掌し、帰順するよう懸命に説得しました。

 

 

 

 

大久保利通肖像写真

大久保利通肖像写真

 

繁の説得が功を奏し、過激派は帰順を決定。

大久保利通は、繁の説得を、

「神妙の働き」

と、讃えました。

 

まさに命がけ!

凄いなあ。

 

 

奈良原喜左衛門と生麦事件

 

同じく文久2年(1862年)、イギリス商人・チャールズ・リチャードソンら4人は、乗馬で横浜周辺の観光を楽しんでいました。

しかし、途中で出会った島津久光の列中に、騎乗のまま入り込んでしまいます。

 

あちゃー、いくらなんでも危ない......。

 

 

これによって騒動が起き、喜左衛門がチャールズを斬り付けます。

 

チャールズは逃走するも、やがて落馬。

 

そして、海江田信義(有村俊斎)によってトドメを刺されました。

 

 

 

この一連の出来事を、生麦事件と呼びます。

翌年の文久3年(1863年)に、イギリス艦隊と薩摩藩が交戦した、薩英戦争の原因にもなりました。

 

そうだったんだ!

 

 

奈良原繁・喜左衛門の墓のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市郡元町9 露重墓地内
料金 無料
駐車場 駐車スペースあり
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で10分
郡元駅から徒歩10分
郡元バス停から徒歩10分

 

 

奈良原繁・喜左衛門の墓の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

奈良原繁・喜左衛門の墓の総評

 

地元の鹿児島市民でも知る人が少ない、まさに隠れスポットです。

 

その代わり、ゆっくりお墓参り出来るね。

 

 

両兄弟の墓は、現在、御子孫の方が維持・管理されています。

 

お墓参りの際には、決してゴミをお捨てにならないで下さい。

 

 

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