大山巌誕生地は、鹿児島市加治屋町にあります。
この記事では、大山の人生を簡単に紹介します。
大山巌の人生
誕生
近所の西郷家で習字や読書を習い、藩校の造士館に通いながら成長しました。
子供時代は元気者でしたが、戦ごっこの際に、誤って左目を突かれました。
これが原因で、大山は左目の視力がなかったと言われています。
寺田屋事件・薩英戦争
翌年の文久3年(1863年)、薩英戦争前に謹慎が解かれます。
そしてスイカ商人に扮して、イギリス艦を奪おうと画策。
作戦は失敗するも、戦争時には弁天波止砲台で奮戦しました。
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江戸留学・戊辰戦争
免許皆伝を受けます。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、薩摩藩二番砲隊長となり、弥助砲と呼ばれる改良型の臼砲・山砲を用いて、各地を転戦しました。
しかし、会津若松城攻撃初日に太ももを撃ち抜かれ、負傷離脱します。
撃ったのは、同じく砲術家の女性・山本八重といわれ、城内には後の妻・山川捨松がいました。
ヨーロッパ留学・西南戦争
明治10年(1877年)の西南戦争では、別働第1・第3旅団を率いて、戦線に立ちました。
結果的に大山は、西郷と甥の辰之助を討ち取る形となりました。
これを生涯気にかけ、2度と薩摩に戻りませんでした。
再婚
その翌年の明治16年(1883年)、日本最初の留学生・山川捨松と大恋愛のすえ結婚しました。
捨松の兄・山川浩は、会津若松城で薩長と戦った旧会津藩士でした。
そのため、2人の結婚に大反対。
しかし、大山の幼馴染である従道が説得し、ようやく2人は結ばれました。
日露戦争・日清戦争
明治38年(1905年)の奉天会戦では、日本軍20万人を指揮し、30万人のロシア軍と戦って、奉天を占拠。
当時63才でしたが、第一線で活動しました。
死去
そして大正5年(1916年)、75才で死去します。
国葬が営まれ、現在の栃木県那須塩原市に葬られました。
大山巌誕生地のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市加治屋町4 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で5分 | |
鹿児島中央駅から徒歩10分 | |
まち巡りバス 維新ふるさと館前から徒歩1分 |
|
カゴシマシティビュー 維新ふるさと館前から徒歩3分 |
大山巌誕生地の地図
大山巌誕生地の総評
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