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大山巌誕生地

大山巌誕生地

大山巌誕生地

 

大山巌って、だーれ?

 

西郷隆盛・従道兄弟の従兄弟で、軍人として活躍しました。

 

 

大山巌誕生地は、鹿児島市加治屋町にあります。

 

この記事では、大山の人生を簡単に紹介します。

 

 

大山巌の人生

誕生

西郷隆盛誕生地

西郷隆盛誕生地

 

天保13年(1842年)、薩摩藩士・綱昌の次男として、大山は生まれます。

近所の西郷家で習字や読書を習い、藩校の造士館に通いながら成長しました。

 

ふむふむ。

 

 

子供時代は元気者でしたが、戦ごっこの際に、誤って左目を突かれました。

 

これが原因で、大山は左目の視力がなかったと言われています。

 

 

 

 

 

寺田屋事件・薩英戦争

 

文久2年(1862年)の21才の時、大山は有馬新七らと反幕挙兵を計画するも、国父・島津久光が派遣した鎮撫使に投降しました。

 

血潮たぎる青年時代だったんだね。

 

 

翌年の文久3年(1863年)、薩英戦争前に謹慎が解かれます。

 

そしてスイカ商人に扮して、イギリス艦を奪おうと画策。

 

作戦は失敗するも、戦争時には弁天波止砲台で奮戦しました。

 

 

 

 

江戸留学・戊辰戦争

 

薩英戦争で海外の脅威を目の当たりにした大山は、洋式操練の採用を藩に建言し、江戸の江川塾に入門。

免許皆伝を受けます。

 

砲術家になったんだね。

 

 

明治元年(1868年)の戊辰戦争では、薩摩藩二番砲隊長となり、弥助砲と呼ばれる改良型の臼砲・山砲を用いて、各地を転戦しました。

 

しかし、会津若松城攻撃初日に太ももを撃ち抜かれ、負傷離脱します。

 

撃ったのは、同じく砲術家の女性・山本八重といわれ、城内には後の妻・山川捨松がいました。

 

 

ヨーロッパ留学・西南戦争

 

明治政府樹立後は、陸軍創設のために渡欧。

明治10年(1877年)の西南戦争では、別働第1・第3旅団を率いて、戦線に立ちました。

 

身内同士で、敵・味方に別れちゃったんだね。

 

 

結果的に大山は、西郷と甥の辰之助を討ち取る形となりました。

 

これを生涯気にかけ、2度と薩摩に戻りませんでした。

 

 

再婚

 

明治15年(1882年)、妻・沢子が亡くなり、大山は独身になります。

その翌年の明治16年(1883年)、日本最初の留学生・山川捨松と大恋愛のすえ結婚しました。

 

この時代に恋愛結婚したんだ~!

 

 

捨松の兄・山川浩は、会津若松城で薩長と戦った旧会津藩士でした。

 

そのため、2人の結婚に大反対。

 

しかし、大山の幼馴染である従道が説得し、ようやく2人は結ばれました。

 

 

日露戦争・日清戦争

 

その後は陸軍大臣を何度も務め、日清戦争や日露戦争では、司令官として現地に赴任しました。

 

頼りにされてたんだね。

 

 

明治38年(1905年)の奉天会戦では、日本軍20万人を指揮し、30万人のロシア軍と戦って、奉天を占拠。

 

当時63才でしたが、第一線で活動しました。

 

 

死去

 

日清・日露戦争での功績が認められ、大山は元帥・公爵の2つの地位を得ました。

 

軍人として当時最高の栄誉だったろうね。

 

 

そして大正5年(1916年)、75才で死去します。

 

国葬が営まれ、現在の栃木県那須塩原市に葬られました。

 

 

大山巌誕生地のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市加治屋町4
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で5分
鹿児島中央駅から徒歩10分
まち巡りバス
維新ふるさと館前から徒歩1分
カゴシマシティビュー
維新ふるさと館前から徒歩3分

 

 

大山巌誕生地の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

大山巌誕生地の総評

 

加治屋町には偉人のスポットが多数ありますが、大山の石碑が一番立派ですね。

 

4~5mは、あるかも!

 

 

 

 

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