また、幕末の禁門の変で、薩摩を勝利に導きました。
中原猶介宅跡は、鹿児島市上之園町の甲南高校にあります。
この記事では、中原の人生を簡単に紹介します。
中原猶介の人生
誕生・蘭学
少年の頃から英才で、蘭学を独学するほど。
藩に出仕後は、長崎出張中に蘭学を研究するなど、西洋知識の吸収に貪欲でした。
集成館事業
嘉永4年(1851年)、斉彬はガラス細工職人の四元亀次郎>に、紅ガラスの製造を命令。
宇宿彦右衛門と中原が、実験・製造を手伝いました。
斉彬は、紅ガラスを工芸品に高めて輸出し、その富で国を豊かにしようと考えていました。
製造実験は、数100回を経て成功。
カッティングされた紅ガラスは、薩摩切子として人々を魅了しました。
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反射炉は、鉄製の大砲造りに欠かせない施設。
中原は、掛員として携わりました。
しかし建設途中に炉が傾き、支柱を立てて補正するも、今度は反対側に傾きます。
翌年の嘉永6年(1853年)に完成するも、内部の耐火レンガがボロボロに崩れ落ち、失敗に終わりました。
当時、詳細な蒸気機関の設計図は、薩摩にありませんでした。
翌年の安政2年(1855年)、蒸気船が完成。
試運転が行われます。
しかし不具合に見舞われ、こちらも失敗に終わりました。
砲術家
集成館事業は縮小され、中原は失職。
その後は江戸の江川坦庵の塾に入り、砲術家になりました
天才は、何でも出来るね。
文久3年(1863年)の薩英戦争では、病気のため参戦できませんでした。
しかし、戦後すぐに自宅で砲術塾を開き、村田新八、川村純義、辺見十郎太らを指導しました。
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禁門の変
これにより、禁門の変が勃発しました。
対立関係にあった薩摩は、長州相手に苦戦します。
そこへ海軍操練所の塾生と中原が、長州の背後に回り込んで砲撃。
長州は大打撃を受けて敗走し、薩摩はこの戦いに勝利しました。
戊辰戦争・戦死
薩摩にとって、中原はなくてはならない軍人になっていました。
しかし 戊辰戦争における北越戦争で、銃弾が右膝を貫通しました。
助からないと悟った中原は、治療を拒否。
37才の若さで亡くなりました。
中原猶介宅跡のアクセス・駐車場・料金
立入時間 | 不規則 |
場所 | 鹿児島市上之園町24-23 |
料金 | 無料 |
駐車場 | あり |
アクセス | 鹿児島空港から車で35分 |
鹿児島中央駅から車で5分 | |
鹿児島中央駅から徒歩15分 | |
まち巡りバス 鹿児島中央駅から徒歩15分 |
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カゴシマシティビュー 鹿児島中央駅から徒歩15分 |
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電話 | 甲南高校 099-254-0175 |
中原猶介宅跡の地図
中原猶介宅跡の総評
そのため石碑を訪れるのは、土日祝日が良いでしょう。
また、事前の電話連絡もお忘れなく。
中原は、集成館事業のほぼ全てに関わったと言われています。
西郷隆盛と並ぶ、斉彬の秘蔵っ子でした。
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