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寺島宗則銅像

投稿日:2018年6月30日 更新日:

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寺島宗則銅像

寺島宗則銅像

寺島宗則さんって、何をされた方なのですか?

 

色々です!

28代・島津斉彬が興した集成館事業に参加し、薩摩藩の対英外交を担い、日本に電信を開通させました。

 

寺島宗則銅像は、鹿児島市中央町の若き薩摩の群像にあります。

 

この記事では、寺島の人生を紹介します。

 

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寺島宗則の人生

誕生・養子入り

天保3年(1832年)、長野祐照の次男として生まれた寺島は、天保7年(1836年)、蘭方医・松木宗保の養子となりました。

 

5才で養子入りしたのですね。

 

養父・宗保は、薩摩藩から長崎に派遣されていました。

 

そのため、寺島も長崎に住みました。

 

そして、8才になった天保10年(1839年)から、オランダ語を学び始めます。

 

宗保の跡継ぎとして、蘭方医になるためでした。

 

集成館事業

鶴灯籠

鶴灯籠

弘化2年(1845年)、寺島は江戸に藩費留学し、蘭学を学びます。

そして、20才となった嘉永4年(1851年)年、隠居した27代・島津斉興の侍医となりました。

 

20才で前藩主の侍医だなんて、寺島さんは天才だったのですね!

 

安政3年(1857年)、寺島は斉彬の侍医となります。

 

この時、その頭脳が買われます。

 

集成館事業では、オランダ書物を翻訳。

 

反射炉建造や、ガス灯実験の成功に貢献しました。

 

 

薩英戦争

しかし、文久3年(1863年)の薩英戦争で、集成館事業の工場群は壊滅。

反射炉も焼失しました。

 

はわわ~!

 

また、イギリス艦隊に拿捕された汽船に乗っていた寺島は、捕虜となります。

 

後に釈放されるも、薩摩藩からスパイ容疑を受けました。

 

そのため、約1年間、江戸や熊谷で潜伏する日々が続きました。

 

渡英

若き薩摩の群像

若き薩摩の群像

元治元年(1864年)、赦免された寺島は、外交使節として渡英するよう、藩に命じられます。

 

薩摩藩とイギリスは、戦争したばかりだったのでは?

 

実は戦後すぐ、双方は和解に至りました。

 

寺島は王政復古への協力を、イギリス外相・クラレンドンに要請。

 

クラレンドンは、在日公使・パークスに、間接的に助力するよう指令を送りました。

 

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日本電気通信の父

電信使用の地

電信使用の地

明治初期は、神奈川府判事に就任します。

そして、電信敷設の建議書を提出。

これにより

  1. 東京~横浜
  2. 長崎~上海
  3. 長崎~ウラジオストク

との間で、電信が開通しました。

 

寺島さんは、電信に関心があったのですね。

 

寺島は、先の集成館事業で、電信の実験にも関わりました。

 

翻訳したオランダ書物を元に成功し、その記念碑が探勝園に建っています。

 

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死去

その後は在英日本公使や外務卿を務め、明治26年(1893年)6月5日、結核で亡くなりました。

 

薩摩藩出身ですが、武人ではなく、知識人として重用された方だったのですね。

 

寺島宗則銅像の基本情報

【時】 自由
【所】 鹿児島市中央町37
【料】 無料
【駐】 なし
【交】    鹿児島中央駅から車で0分
鹿児島中央駅から徒歩1分
まち巡りバス 鹿児島中央駅から徒歩1分
カゴシマシティビュー 鹿児島中央駅から徒歩1分

 

寺島宗則銅像の地図

Googleマップの大きな地図で見る

 

寺島宗則銅像の総評

寺島宗則銅像

寺島宗則銅像

若き薩摩の群像のうち、椅子に座ってシルクハットを持っているのが寺島です。

 

特徴的なので、すぐに分かりますよ!

 

また、周辺には

 

 

などの観光スポットがあります。

 

こちらにも、是非どうぞ。

 

 


 

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