河野主一郎って、だーれ?
西郷隆盛の墓がある、南洲墓地を整備した人物です。
河野主一郎誕生地は、鹿児島市高麗町にあります。
この記事では、河野と西南戦争の関わりを紹介します。
河野主一郎と西南戦争
密偵捕縛
明治10年(1877年)、西郷が創設した私学校の生徒が暴発し、草牟田の陸軍火薬庫を襲撃しました。
ふむふむ。
一報を聞いた河野は、私学校幹部の篠原国幹などと、対応を協議。
暴発を抑えず、あえて泳がせていた政府密偵を逮捕することにしました。
西郷軍編成
逮捕された密偵は、拷問の末、西郷暗殺を自白します。
拷問による自白か~。
これにより西郷は、出兵上京を決意。
河野は部隊編成を行い、みずから五番大隊一番小隊長に就きました。
西郷助命
熊本での戦いに端を発した西南戦争は、西郷軍の連戦連敗。
ついに鹿児島へ戻ってくるも、本営を敷いた城山は、政府軍5万人に包囲されました。
あちゃー......。
そこで河野は、西郷の命だけも助けようと、参軍・川村純義に面会します。
しかし、交渉は不調に終わり、河野は捕虜となりました。
三州社設立
戦後、懲役10年の判決を受けましたが、特赦によって4年で出獄。
鹿児島に帰ってきました。
その後は、どうしたの?
河野は、西郷軍の残党と三州社を設立し、社長に就任します。
三州社は、会員の互助と士族授産を目指した結社でした。
また、教育機関として三州義塾を併設。
西郷の子、寅太郎も学びました。
南洲墓地整備
くわえて、西南戦争による西郷軍戦没者の遺骨収集も行い、南州墓地の整備に力を注ぎました。
河野は西郷軍の生き残りだったから、使命感を持って取り組んだかもね。
河野が集めた遺骨の数は、約1800名にも上りました。
こうして終戦6年後の明治16年(1883年)、南洲墓地は現在の形になりました。
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河野主一郎誕生地のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島高麗町25-2 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で5分 | |
鹿児島中央駅から徒歩10分 | |
まち巡りバス 維新ふるさと館から徒歩5分 |
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カゴシマシティビュー 維新ふるさと館前から徒歩5分 |
河野主一郎誕生地の地図
河野主一郎誕生地の総評
南洲墓地の整備が終わった翌年、政府から官途の誘いを受け、河野は上京しました。
整備に一区切りついて、肩の荷が下りたかもね。
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