

永山弥一郎の墓は、鹿児島市上竜尾町の南洲墓地にあります。
この記事では、永山の人生を簡単に紹介します。
永山弥一郎の人生
誕生・精忠組参加


永山は家計を助けるため、茶道方として藩に出仕。
のちに還俗し、大久保利通を中心とする精忠組の一員となりました。
寺田屋事件

しかし、薩摩藩士・有馬新七の反幕挙兵に賛同し、脱出しました。

文久2年(1862年)、有馬達は伏見の寺田屋で、薩摩藩の国父・島津久光が派遣した藩士達に鎮撫されました。
永山は、鎮撫使の説得を受けて投降。
年少だったため、処罰を免れました。
軍人時代

十六橋の戦いでは、怪我をおして奮戦し、政府軍を会津若松城に導きました。

戦後の明治2年(1869年)、永山は、鹿児島常備隊の教導になります。
そして明治4年(1871年)、御親兵として上京。
陸軍少佐となりました。
北海道の開拓主典・帰郷


しかし、明治8年(1875年)の樺太千島交換条約に反対し、辞職。
故郷の鹿児島に帰りました。
西南戦争

しかし、戊辰戦争の勇猛さから、一目置かれた存在でした。
明治10年(1877年)の私学校生徒暴発後、本校で行われた評議の場では、挙兵反対を説きました。

永山は
「西郷・桐野利秋・篠原国幹の3人で上京し、政府の非を糾弾すべし」
と主張しましたが、却下されます。
当初、従軍の意志はありませんでしたが、桐野が説得し、応じました。
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しかし、明治10年(1877年)4月13日、御船の戦いで政府軍に包囲され、武運が尽きます。
永山は、周辺宿の主人から家を買い取り、火を点けて自刃。
享年40才でした。
永山弥一郎の墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市上竜尾町2-1 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 無料 |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス 南洲公園入口から徒歩5分 |
|
カゴシマシティビュー 西郷南洲顕彰館前から下車すぐ |
永山弥一郎の墓の地図
永山弥一郎の墓の総評

しかし、家の主人から
「私達の故郷の守護神だから、そのまま留めてほしい」
と頼まれたため、長い間そこにありました。

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