

お由羅の墓は、鹿児島市池之上町の福昌寺跡にあります。
この記事では、お由羅の人生を簡単に紹介します。
この記事は、2023年10月1日(日)に更新されました。
お由羅の人生
斉興の側室に


江戸の船宿の娘、または大工の娘とも言われています。
江戸薩摩藩邸で奉公していた頃、斉興に見初められて側室に。
のちに斉興の正室・賢章院が亡くなると、お由羅は夫人扱いとなりました。
島津久光を生む

久光は聡明で、斉興は次期藩主にと考えていました。
しかし久光には、腹違いの兄・島津斉彬がいました。

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お由羅騒動

ついに斉彬派は、お由羅の暗殺を企てます。
しかし露見し、多くの斉彬派が切腹・流島となりました。

お由羅をはじめ、斉興・斉彬・久光は、直接関わっていませんでした。
あくまでも、互いの擁立派同士の争いだったのです。
久光派は呪詛を念じ、斉彬派は報復として、お由羅屋敷の床下に調伏人形を埋めました。
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死去

お由羅の孫・島津忠義が藩主となり、息子の久光は後見人の国父となりました。

斉興の死から7年後の慶応2年(1866年)、お由羅はこの世を去ります。
側室ながら、墓碑は斉興の隣に建てられました。
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お由羅の墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市池之上町24 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 駐車スペースあり |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で15分 | |
まち巡りバス 南洲公園入口から徒歩10分 |
|
カゴシマシティビュー 今和泉島津家本邸跡前から徒歩10分 |
お由羅の墓の地図
お由羅の墓の総評

繰り返しますが、お由羅騒動に本人は関わっていません。

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