伊集院須磨の墓は、鹿児島市池之上町の福昌寺跡にあります。
この記事では、須磨の後半生と子供達を、簡単に紹介します。
伊集院須磨の後半生と子供達
5人の子供
- 篤之助
- 暐姫(てるひめ)
- 典姫(のりひめ)
- 寧姫(やすひめ)
- 哲丸
しかし嘉永2年(1849年)、篤之助が病死します。
これをきっかけに、次期藩主を斉彬とするか、それとも斉彬の弟・島津久光にするかの派閥争い、いわゆる〈お由羅騒動〉が勃発しました。
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島津斉彬の死
斉彬は逝去前日、以下の2つを遺言しました。
- 末子の哲丸を、弟・島津久光の長男・島津忠義の仮養子にすること
- 忠義を、娘・暐姫の婿養子にすること
こうして斉彬の末子・哲丸が、将来の藩主候補となりました。
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哲丸の死
斉彬の他の男子もすべて夭折していたため、哲丸の死をもって、直系男子が藩主に就く可能性はなくなりました。
暐姫と自身の死
しかし明治2年(1869年)、その暐姫も難産のため亡くなります。
身内を相次いで亡くした須磨は、翌年の明治3年(1870年)に病没しました。
伊集院須磨の墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市池之上町24 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 駐車スペースあり |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で15分 | |
まち巡りバス 南洲公園入口から徒歩10分 |
|
カゴシマシティビュー 今和泉島津家本邸跡前から徒歩10分 |
伊集院須磨の墓の地図
伊集院須磨の墓の総評
写真中央〈大隅6代氏久〉の墓近くにあります。
神号の〈和霊徳壽姫之命〉が、目印です。
寧姫は明治3年(1870年)、忠義の後妻となりました。
しかし明治12年(1879年)、姉の暐姫と同じく、難産で死去。
典姫は忠義の弟・珍彦(うずひこ)に嫁つぎ、5人の子供を生みました。
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