赤倉病院の跡

赤倉病院の跡

赤倉病院の跡

 

赤倉病院って、なーに?

 

明治初期、小川町にあった医学校と病院のことです。

ここで、イギリス人医師・ウィリアム・ウィリスが、校長と院長を務めました。

 

 

赤倉病院の跡は、鹿児島市小川町にあります。

 

この記事では、赤倉病院の歴史を紹介します。

 

 

赤倉病院の歴史

設立

南洲墓地

南洲墓地

 

明治元年(1868年)、現在の南洲墓地と南洲神社がある場所に、鹿児島医学校が設立されました。

また学校隣には、病院も併設されました。

 

ふむふむ。

 

 

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ウィリアム・ウィリス招聘

 

翌年の明治2年(1879年)、薩摩藩の推挙により、ウィリスが校長と院長に就任しました。

ウィリスは戊辰戦争で、多くの薩摩藩士を治療。

麻酔を使用した外科手術で、多くの名声を得ていました。

 

へーっ!

 

 

西郷隆盛の弟・従道も、ウィリスの手術で一命を取り留めました。

 

ちなみにウィリス推挙には、西郷も関わっています。

 

恩義だけなく、医術を買っての推挙でした。

 

 

移転

赤倉病院の跡

赤倉病院の跡

 

その後、医学校と病院は、石碑のある小川町に移りました。

赤レンガ造りの洋館で、窓が小さく倉庫に見えたので、〈赤倉病院〉と呼ばれました。

 

名前は、外見が由来だったんだね~。

 

 

「ウィリス、高木に西洋医学を説く」

「ウィリス、高木に西洋医学を説く」

 

ウィリスは診療のかたわら、西洋医の養成に努めました。

医学生だった高木兼寛は、のちに慈恵医科大学を創設。

ビタミンの父とも呼ばれました。

余談ですが、2人の像が山下町に建っています。

 

へーっ!

 

 

閉鎖

 

しかし明治10年(1877年)、西南戦争が勃発しました。

西郷は鹿児島を出発する数日前、ウィリス邸を訪問。

2人は、これが今生の別れとなりました。

同年、ウィリスは鹿児島を去り、赤倉病院も閉鎖されました。

 

鹿児島は西南戦争で、沢山の人材や物を失ったんだね......。

 

 

赤倉病院の跡のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市小川町13-13
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で10分
まち巡りバス
かごしま水族館前から徒歩5分
カゴシマシティビュー
鹿児島駅前から徒歩3分

 

 

赤倉病院の跡の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

赤倉病院の跡の総評

 

鹿児島で8年間も診療してくれたウィリスは、当時の人びとにとって、神様仏様だったかもね。

 

明治3年(1870年)の記録によると、70日間に3,206人の患者を診療したとあります。

1日平均46人の計算です。

多忙を極めたのは、頼りにされていた証でしょうね。

 

 

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