前田正名ゆかりの地は、鹿児島市小川町にあります。
この記事では、正名の人生を簡単に紹介します。
前田正名の人生
誕生・少年時代
安政5年(1858年)、9才の正名は、医者である八木称平の屋敷に住み込み、八木主催の蘭塾に入ります。
元治元年(1864年)、塾はエリート養成機関の開成所となり、慶応元年(1865年)、イギリスに選抜生徒を留学させることになりました。
長崎留学・英和辞典発行
しかし熱意を買った藩は、長崎への藩費留学を許可。
当地で英語を学びました。
そして兄・献吉と、その友人・高橋新吉と共同で、留学資金獲得のために、英和辞書を編纂。
明治2年(1869年)に完成後、大久保利通に政府名義で買い取ってもらい、その利益でフランスへ留学しました。
余談ですが、この編纂を讃えた『薩摩辞書之碑』が、鹿児島市の鶴丸城二ノ丸に建っています。
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フランス留学・パリ万博
また、フランス農商務省に出入りし、農業経済の知識を吸収。
この経験が、後の人生に大きな影響を与えました。
明治11年(1876年)のパリ万博では、日本の事務次官長に就任。
日本庭園の造成を発案したほか、演劇「日本美談」の脚本を執筆します。
フランス人俳優に演じさせ、大変好評を得ました。
興業意見の編集
農産物の価格が下落し、地方は大打撃を受けました。
農商務省の大書記官だった正名は、地方調査を実施して、『興業意見』全30巻を編纂。
地方産業振興を優先するよう、主張します。
しかし、重工業路線を優先する大蔵省や松方の抵抗に遇い、実現したのは、ほんのわずかでした。
地方産業振興運動
しかし、人間関係や思想で対立していた農商務相・陸奥宗光に追放され、地方産業振興は、再び頓挫。
そこで正名は、産業振興を生産者に直接啓発する、全国行脚を始めました。
当初は全く反応がありませんでしたが、やがて蚕糸や茶業など、全国に12の農工商団体が結成されました。
団体は品評会を開催し、生産物の品質を向上させます。
また、全国大会も毎年開き、建議を政府や議会に提出。
これにより、地方産業振興の関連法や制度、施設が具体化されました。
死去
農工商発展を生涯唱え、大正10年(1921年)、72才で亡くなりました。
前田正名ゆかりの地のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市小川町19 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス かごしま水族館前から徒歩5分 |
|
カゴシマシティビュー 鹿児島駅前から徒歩3分 |
前田正名ゆかりの地の地図
前田正名ゆかりの地の総評
関連サイト
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