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寺島宗則銅像

寺島宗則銅像

寺島宗則銅像

 

寺島宗則さんって、何をされた方なのですか?

 

いろいろです!

28代・島津斉彬が興した集成館事業に参加し、薩摩藩の対英外交を担い、日本に電信を開通させました。

 

 

寺島宗則銅像は、鹿児島市中央町の若き薩摩の群像にあります。

 

この記事では、寺島の人生を簡単に紹介します。

 

 

寺島宗則の人生

誕生・養子入り

 

天保3年(1832年)、長野祐照の次男として生まれた寺島は、天保7年(1836年)に、蘭方医・松木宗保の養子となりました。

 

5才で養子入りしたのですね。

 

 

養子入り後、宗保は薩摩藩から長崎への派遣命令を受けます。

 

そのため、寺島も長崎に住みました。

 

そして、8才になった天保10年(1839年)から、オランダ語を学び始めます。

 

宗保の跡継ぎとして蘭方医になるためで、のちに松木弘安と名乗りました。

 

 

集成館事業

鶴灯籠

鶴灯籠

 

弘化2年(1845年)、寺島は江戸に藩費留学し、蘭学を学びます。

そして20才の嘉永4年(1851年)、隠居していた27代・島津斉興の侍医となりました。

 

20才で前藩主の侍医だなんて、寺島さんは優秀だったのですね。

 

 

安政3年(1857年)、寺島は斉彬の侍医も務めます。

 

これを機に、その頭脳が買われること。

 

集成館事業では、オランダ書物を翻訳。

 

反射炉建造や、ガス灯実験の成功に貢献しました。

 

 

 

 

捕虜と潜伏生活

 

しかし、文久3年(1863年)の薩英戦争で、集成館事業の工場群は壊滅。

反射炉も焼失しました。

 

はわわ~!

 

 

また、イギリス艦隊に拿捕された汽船に乗っていた寺島は、捕虜となりました。

 

後に釈放されるも、薩摩藩からスパイ容疑を受けます。

 

そのため約1年間、江戸や熊谷で潜伏する日々が続きました。

 

 

渡英

若き薩摩の群像

若き薩摩の群像

 

戦争翌年の元治元年(1864年)、赦免された寺島は、外交使節としてイギリスに渡るよう、藩から命じられます。

 

でも、薩摩藩とイギリスは、戦争したばかりだったのでは?

 

 

実は、戦後すぐ、双方は和解に至りました。

 

寺島は、王政復古への協力を、イギリス外相・クラレンドンに要請。

 

クラレンドンは後日、在日公使・パークスに、間接的に助力するよう指令を送りました。

 

 

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日本電気通信の父

電信使用の地

電信使用の地

 

維新後の明治初期、寺島は神奈川府判事に就任しました。

そして、電信敷設の建議書を政府に提出。

これにより、以下の都市間で、電信が開通しました。

  1. 東京~横浜
  2. 長崎~上海
  3. 長崎~ウラジオストク

 

寺島さんは、電信に関心があったのですね。

 

 

寺島は、先の集成館事業で、電信の実験にも関わりました。

 

翻訳したオランダ書物を元に成功し、その記念碑が探勝園に建っています。

 

 

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死去

 

その後は、在英日本公使や外務卿などを務め、明治26年(1893年)に結核で亡くなりました。

 

薩摩藩出身ですが、武人でなく知識人として重用された方だったのですね。

 

 

寺島宗則銅像のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市中央町37
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で0分
鹿児島中央駅から徒歩1分
まち巡りバス
鹿児島中央駅から徒歩1分
カゴシマシティビュー
鹿児島中央駅から徒歩1分

 

 

寺島宗則銅像の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

寺島宗則銅像の総評

寺島宗則銅像

寺島宗則銅像

 

若き薩摩の群像のうち、椅子に座ってシルクハットを持っているのが寺島です。

 

特徴的なので、すぐに分かりますね!

 

 

この記事の参考文献はこちら

 

 

 

 

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