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高崎正風翁の碑

高崎正風翁の碑

高崎正風翁の碑

 

高崎正風って、だーれ?

 

八月十八日の政変を主導し、長州勢力を京から追放した人物です。

また、沖永良部島に流されていた西郷隆盛の赦免に尽力しました。

 

 

高崎正風翁の碑は、鹿児島市長田町にあります。

 

この記事では、高崎の人生を簡単に紹介します。

 

 

高崎正風の人生

誕生・お由羅騒動

お由羅の墓

お由羅の墓

 

天保7年(1836年)、高崎は父・温恭(やすはる)の長男として、現在の長田町で生まれました。

 

だから長田町に石碑があるんだね。

 

 

しかし、嘉永2年(1849年)のお由羅騒動で、父が切腹。

 

連座により、高崎は奄美に流されます。

 

赦免されたのは、嘉永5年(1852年)でした。

 

 

 

 

八月十八日の政変

 

その後、在京藩士となった高崎は、文久3年(1863年)に朝廷を牛耳ってい長州勢力の追放を主導しました。

これを、〈八月十八日の政変〉と言います。

 

長州一藩が朝廷を牛耳っていたら、薩摩藩や幕府は面白くないよね。

もちろん天皇も。

 

 

八月十八日の政変は、高崎など在京藩士による独自の判断に基づき実行されました。

 

つまり、国許や大坂藩邸に秘匿で進められた政変劇だったのです。

 

この功績で高崎は、朝廷・幕府・薩摩藩に至るまで、多大な褒章を下賜されました。

 

 

西郷赦免運動

 

しかし長州勢力を京から追放しても、薩摩藩は中央政治に大きな影響力を持てずにいました。

そのため、カリスマ性のある西郷を流罪地の沖永良部島から呼び戻す声が、在京藩士から上がり始めます。

 

ふむふむ。

 

 

島津久光の側近であった高崎は、西郷召還を直接申し入れます。

 

流島を命じた張本人の久光は、キセルを噛んで激怒。

 

しかし最終的に折れ、召還が実現しました。

 

 

罷免・左遷

有村溶岩展望所(桜島)

有村溶岩展望所(桜島)

 

西郷召還から3年後の慶応3年(1866年)、薩摩藩の方針が武力倒幕に決まります。

しかし高崎は、反対派に属していました。

そのため、武力討幕を訴える西郷と対立しました。

 

せっかく西郷を呼び戻したのに、その本人と対立しちゃったのか~......。

 

 

慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争で、高崎は下参謀として旧幕府軍を攻めました。

 

しかし、わずか2日で罷免。

 

西郷により京から薩摩藩に戻され、桜島・牛根・高隈・百引の地頭に左遷されました。

 

 

宮廷歌人・死去

 

維新後は宮中に入り、御歌掛・御歌所長となります。

これにより高崎は、明治天皇の和歌を指導する立場となりました。

 

え~っ、凄い!

 

 

そして明治45年(1912年)、高崎は75歳で逝去しました。

 

お墓は、東京の青山霊園にあります。

 

 

高崎正風翁の碑のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市長田町15
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島中央駅から車で10分
まち巡りバス
薩摩義士碑から徒歩10分
カゴシマシティビュー
薩摩義士碑から徒歩10分

 

 

高崎正風翁の碑の地図

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高崎正風翁の碑の総評

 

高崎は、一般的にあまり知られていない人物です。

しかし、歴史を確実に動かしたことも事実。

石碑を訪れて、苦難の少年時代を回想するのもいいでしょう。

 

高崎は、波乱万丈の人生を送ったんだね。

 

 

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