28代・島津斉彬が興した集成館事業に参加し、薩摩藩の対英外交を担い、日本に電信を開通させました。
寺島宗則銅像は、鹿児島市中央町の若き薩摩の群像にあります。
この記事では、寺島の人生を簡単に紹介します。
寺島宗則の人生
誕生・養子入り
養子入り後、宗保は薩摩藩から長崎への派遣命令を受けます。
そのため、寺島も長崎に住みました。
そして、8才になった天保10年(1839年)から、オランダ語を学び始めます。
宗保の跡継ぎとして蘭方医になるためで、のちに松木弘安と名乗りました。
集成館事業
そして20才の嘉永4年(1851年)、隠居していた27代・島津斉興の侍医となりました。
安政3年(1857年)、寺島は斉彬の侍医も務めます。
これを機に、その頭脳が買われること。
集成館事業では、オランダ書物を翻訳。
反射炉建造や、ガス灯実験の成功に貢献しました。
捕虜と潜伏生活
反射炉も焼失しました。
また、イギリス艦隊に拿捕された汽船に乗っていた寺島は、捕虜となりました。
後に釈放されるも、薩摩藩からスパイ容疑を受けます。
そのため約1年間、江戸や熊谷で潜伏する日々が続きました。
渡英
実は、戦後すぐ、双方は和解に至りました。
寺島は、王政復古への協力を、イギリス外相・クラレンドンに要請。
クラレンドンは後日、在日公使・パークスに、間接的に助力するよう指令を送りました。
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日本電気通信の父
そして、電信敷設の建議書を政府に提出。
これにより、以下の都市間で、電信が開通しました。
- 東京~横浜
- 長崎~上海
- 長崎~ウラジオストク
寺島は、先の集成館事業で、電信の実験にも関わりました。
翻訳したオランダ書物を元に成功し、その記念碑が探勝園に建っています。
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死去
寺島宗則銅像のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市中央町37 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で0分 | |
鹿児島中央駅から徒歩1分 | |
まち巡りバス 鹿児島中央駅から徒歩1分 |
|
カゴシマシティビュー 鹿児島中央駅から徒歩1分 |
寺島宗則銅像の地図
寺島宗則銅像の総評