明治10年(1877年)9月24日に戦死しました。
桐野利秋の墓は、鹿児島市上竜尾町の南洲墓地にあります。
この記事では、桐野利秋の最期を紹介します。
桐野利秋の最期
総攻撃前夜
翌朝の総攻撃を、政府軍が予告したためです。
同じ頃、桐野は従僕の清吉に佩刀〈綾小路定利〉を預け、最後の様子を家族に伝えるよう命じました。
しかし当時の西郷軍は、政府軍に包囲されており、とても脱出できません。
そこで清吉は、地中に刀を埋め、総攻撃の最中、大樹の上で身を潜めることにしました。
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桐野は、西郷隆盛、村田新八、別府晋介らと、大保塁のある岩崎口まで下り、最後の決戦に挑むことにしました。
しかし、駕籠に乗っていた西郷が、腹と股に被弾し、起き上がれなくなります。
西郷は
「もう、ここらでよか」
と述べ、桐野たちが見守るなか、別府に介錯されました。
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そこでは、ほぼ外すことなく敵兵を倒しました。
しかし、最期は右額に被弾。
一説には、撃たれた後に短刀で自ら喉を突いたと言われています。
遺体は、旧浄光明寺(現在の南洲墓地)に仮埋葬された後、現在の墓が建てられました。
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桐野利秋の墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市上竜尾町2-1 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 無料 |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス 南洲公園入口から徒歩5分 |
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カゴシマシティビュー 西郷南洲顕彰館前から下車すぐ |
桐野利秋の墓の地図
桐野利秋の墓の総評
なお、政府軍が去ったあと、従僕の清吉は刀を掘り出し、桐野の遺族に届けました。
そして大正5年(1916年)、正五位が追贈され、桐野の賊名が晴れました。
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