辺見十郎太の墓

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辺見十郎太の墓

辺見十郎太の墓

 

辺見十郎太って、だーれ?

 

明治10年(1877年)の西南戦争で、西郷軍三番大隊の一番小隊長を務めた人物です。

 

 

辺見十郎太の墓は、鹿児島市上竜尾町の南洲墓地にあります。

 

当記事では、辺見十郎太と西南戦争の関わりを紹介します。

 

 

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辺見十郎太と西南戦争

西郷への一報・軍編成

陸軍火薬庫跡

陸軍火薬庫跡

明治10年(1877年)、西郷隆盛が設立した私学校の生徒が暴発。

草牟田の陸軍火薬庫から、武器・弾薬を略奪しました。

 

ふむふむ。

 

 

暴発を聞いた辺見は、小根占村(現在の南大隅町)に出掛けていた西郷に、襲撃を知らせます。

 

のちに、政府密偵による西郷暗殺疑惑も浮上したため、挙兵上京が決定。

 

辺見は部隊を編成し、みずから三番大隊の一番小隊長に就きました。

 

 

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会談反対

しかし、西郷の親戚である政府海軍の川村純義が、挙兵上京を止めるため、高雄丸で鹿児島湾に来航します。

こうして西郷と川村の会談が、艦上で行われることになりました。

 

どきどき......!

 

 

しかし、会談に赴こうとする西郷を、反対派の桐野利秋篠原国幹、そして辺見が止めたため、中止となりました。

 

西郷が、そのまま東京に連れて行かれるのを、危惧したためでした。

 

 

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兵員追加募集

こうして、ついに西南戦争が勃発します。

しかし、西郷軍は敗戦を重ね、兵力も削られていきました。

 

負けが続いたら、そうなるよね。

 

 

そこで辺見は、別府晋介らと鹿児島に戻り、追加の兵員を募集します。

 

ただし、入牢中の者を動員したり、脅迫して出兵を迫ったりと、強引な手法も採られました。

 

 

私学校の官軍撃退

私学校跡

私学校跡

しかし結局、戦局は好転せず、西郷は宮崎の延岡で軍を解散します。

そして、鹿児島に戻ることを決めました。

 

死に場所を故郷に求めたんだね。

 

 

鹿児島に戻ってきた西郷軍は、私学校に駐屯していた政府軍200名を、辺見を先頭に、わずか14名で撃退。

 

そして後方の城山に布陣し、最後の決戦に挑みました。

 

 

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辺見の死

西郷隆盛終焉の地

西郷隆盛終焉の地

明治10年(1877年)9月24日、政府軍の総攻撃が始まり、西郷別府に介錯され、城山の露と消えました。

 

辺見は?

 

 

辺見は、西郷の死を見届けたあと、松の木に拠って、切腹しました。

 

一説には、その表情の凄まじさから、しばらく政府軍は近づけなかったと言われています。

 

 

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辺見十郎太の墓のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市上竜尾町2-1
料金 無料
駐車場 無料
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で10分
まち巡りバス
南洲公園入口から徒歩5分
カゴシマシティビュー
西郷南洲顕彰館前から下車すぐ

 

 

辺見十郎太の墓の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

辺見十郎太の墓の総評

辺見は過去に一度、切腹が免れない不始末を起こした際、西郷に助けられた経験がありました。

そのため、西郷に対する恩義は、他者より強く持っていたかもしれません。

 

西南戦争は、西郷への敬慕ゆえ起きたと言えるかもね。

 

 

 

 

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